――知ってるよ、知ってるよ
――そんな貴方だからきっと好きになった
お願い、こっちを見て?
空が大泣きして涙の気配が翌日まで漂う朝。
そういう日は決まって、目が覚める頃には朝食が用意されている。朝はコーヒーしか飲まないアスランが2人分の食事をテーブルに用意しているのだ。
今日も変わらず、パンの香ばしい匂いで一日が始まった。
「…おはよう、いい匂い」
「おはよう、ミルクが切れてたから紅茶にするか?」
「んー、同じでいいよ」
昨日買い物もせずに家に帰ってきたから、冷蔵庫の中身が乏しかったことを思い出す。ブラックコーヒーは苦手だが、わざわざ紅茶を淹れてもらうのは気が引けて、アスランと同じものを入れてもらう。
席に着くとほどなく、湯気を立たせた淹れたてのコーヒーを手渡してくれた。
一口含むと、覚悟した苦さの前にほのかな甘みが舌を優しく撫でる。
「・・・おいしい」
「足したかったら、まだあるぞ?」
遅れてシュガースティックを添えてくれる気遣いに、自然と口元が緩んだ。
ほんのり甘くて、でも苦さのほうが優っているそれは昨晩のアスランの温もりと似ている。
「ありがとう」
いつもより少し早いご飯を済ませて、後片付けは自分が引き受けた。アスランも出勤まで余裕があるので、テレビをつけてニュースをチェックしている。
昨晩のような痛みとやるせなさに苛まれるのは困るが、日課とは異なるこの馴染んだ穏やか一時がとても好きだ。
「今日はビーフシチューを作るから、帰ってきたら温めて食べてね」
「あぁ、いつもありがとう」
今日は雲一つない快晴。昨日の土砂降りの気配はどこを探しても見当たらない。
右目が疼くことはきっとない。
だから、もう大丈夫と答える代わりにかけた言葉に穏やかな微笑むが返されて、ほっとした。ちゃんと自分の言いたいことが伝わっていると満足して、トーストを咀嚼する。
「でも帰りが遅いようなら、気にしなくていいんだぞ?友達との付き合いだってあるだろうし」
何もまっすぐ家に帰ってくることはないと笑みを絶やさない父親の顔。
友達という言葉を聞いて、反射的に隣席の級友を思い浮かべる。
雨の音に呑み込まれた校舎で見つけられて、明らかに様子のおかしい自分を問い詰めることもせず、ただ傍にいてくれた。
―痛むのか?
見透かされた凛とした音に恐れて逃げようとしたのに、有無を言わさず抱きしめられた。
凍えそうなほど寒かった皮膚をゆるゆると温められ、穏やかなリズムを刻む掌に絆されて、誰にも話したことのなかった本音すら吐露してしまった。
言葉を発することなく、黙って聞いてくれたその沈黙に救われた。きっと何か慰めや戒めの音を発せられたら、死んでしまいたかったから。不毛で間違いだらけなんて、自分でもわかっているのだ。
今日、ラスティに会ったら、なんて声をかけよう、どんな顔をしたらいいんだろう。
せっかく目覚めのよい朝を迎えたのに、それを考えると少し憂鬱になってくる。
(・・・嫌われたく、ないな)
面倒な奴と距離を置かれたら、また少し前の1人きりだった時に戻ってしまう。
あの頃は1人でいることに不満を感じていなかったけれど、一度一緒に笑い合える存在を知ってしまったら、独りでいることの虚しさを感じずにはいられないだろう。
何事もなかったように笑って挨拶すれば、昨日のことに触れずにいてくれるだろうか。
授業中にこっそりと内緒話をしたり、昼食にはクラス皆でお弁当を広げて下らない話で笑い合ったり、ラスティと一緒にいるからこそ感じられる楽しさを失いたくなかった。
最後の1口を詰め込んで、ほろ苦いコーヒーを流してから会話の途中だったことを思い出す。
「大丈夫、無理してないよ」
じっと見つめられる熱っぽい視線に、反射的に体温が上がる。
けれど、切なげに眇められた翡翠の焦点が合っていないことに気がついて、あぁと内心で嘆息した。
「キラ」
声の甘さに確信して、少しだけ絶望する。
でも、決して顔にも態度にも出さない。ずっと傍にいると誓ったのだ、空の上にいる大切な人に。
「お父さん?」
「あ、うん・・・、わかった」
夢から覚めたみたいな驚いた顔。
表情が歪まないように、ゆっくりと慎重に口元を弧に描く。絶対に気づかれてはいけないと、細心の注意を払って苦笑した。
「また、お母さんと間違えたでしょ?」
「・・・・・・」
無言は肯定と同義。
もう、と子どもらしい不満気な声を上げれば、数拍遅れてすまないと謝罪が帰ってくる。予想済だったので、事も無げに受け入れた。
さっきまで悩ませていた憂鬱なんて、良くも悪くも吹き飛んでしまった。
(知ってるよ、あなたがまだ母さんを忘れられないって・・・)
否、忘れる気などないのだろう。
未だに母と性の異なる息子にさえ、その面影を探している。合わされることのない視線がキラの中の母を求めている。
一緒に歩く時、必ず作り物の紫電が見える右側にいることも、寝ぼけてキラと呼び声がとびきり甘いことも、無意識だからこそ尚の事思い知らされるのだ。
言わないと決めた想いと流せない涙は、使った食器と一緒に台所に流し込んだ。