――大切で大切で仕方ない
――それなのにどうして泣かせてしまうんだろう


お願い、こっちを見て?



雨の気配が色濃くなると、いつも以上にあの子の顔が思い浮かぶ。
雨音を聞きながらザフトの支部へ移動するとき、雨の匂いを染み付かせた同僚が職場に入ってきたとき、仕事の段取りなど無残に崩れてしまう。
こんなところで黙々と軍務をこなしている場合ではないと、普段溜め込んでいる有給を盾に無理やり早い時間帯に帰宅するのが常だった。
ここ数年、気象予定に雨が出てくる度、胸に苦々しい感情が灯るようになった。梅雨の時期は地球に倣った律儀な四季調整に苛立ちさえ感じるほど。
自宅に着くと、身一つで雨に濡れるのもかまわず車庫から玄関まで走った。
外からは明かりが漏れている部屋はなかったが、施錠されていない玄関がキラの在宅を暗に示している。
廊下もリビングも真っ暗で人の気配が感じられず、雨音だけが空気を震わせていた。照明のスイッチを押すと、コンロにおいてある鍋が視界に入り目を細める。おそらく、自分用にとキラが作ってくれたものだろう。
いつもならば、リビングに明かりがついていない時点でキラの不在を予感するのだが、今日のような陰鬱な天気の日は別だ。
この皮膚に纏わりつく湿気を鬱陶しく感じる中を、あの子は無闇に歩いたりしない。
わずかに開いているキラの自室の扉をそっと空ける。隙間から廊下の照明が差し込んで、ベッドの端を照らした。
大柄の大人でも余裕で大の字になれる広さのベッドで、小さく体を丸めて眠る姿を認めて唇を噛み締めた。体の奥が締め付けられる息苦しさを感じる。

寝顔はお世辞にも安らかとは言えなく、苦悶でわずかに眉間が寄っている。薄闇の中で色まで判別がつかないが、その顔はきっと青白いに違いない。
爪が食い込むほど握りしめている指をそっと毛布から外して、柔らかく両の掌で包み込む。
蒸し暑いくらいの時期に冷えた肌に触れて、その冷たさの意味を知る身としては胸が切なくなった。
キラはあの事件以来、アスランの部屋で寝ることがなくなった。
まろやかな頬にそっと掌をあてて、肌の熱を感じてようやく安心する。
生きている、息をして傍にいる、とようやく確信できる。
軍服を脱いで椅子の背にかけて、極力ベッドを揺らさないように隣へと寄り添った。眠っている体は安眠でなくとも、その熱を高めるらしく服越しに温もりを伝えてくる。感受される喜びを噛みしめて、両腕を腰に巻きつけて片方を柔らかな鳶色の髪に埋めた。
どうか雨で呼び覚まされた疼痛が少しでも和らぐように、と祈りながら目を閉じる。

この子は、知らない。

夜中にこうやって息をしていることを確かめているなんて。
時折、凶悪な夢に魘されて起きることがあるなんて。
夢はいつも決まった光景を映し出して、己の罪をまざまざと見せつけるのだ。叩きつけて割られた空色のカップの欠片。二人で気に入って揃えた物のはずなのに、居心地の良い空間が殺伐とした荒地に一変した。
想いを必死で口にしたその子がどんな思いでそれを口にしたのかも考えず、困惑した己は陳腐な境界線を引いて、取り合おうとしなかった。
必死に抱えて抑えてきた想いを吐露する瞬間の途方もない恐怖を、自分だって知っているのに。
夢はそのまま過去の記憶を鮮やかに再現させる。
躊躇いなく割れた破片を突き立てた右目。溢れる鮮血の赤と鉄臭い匂いがアスランの全身を冷たくした。
一度は捕えたはずの華奢な体は窓を背にして、ゆっくりと傾いでいく。
あの時腕の力を緩めなければ胸に抱いたままだったのに、すぐに手を伸ばせば間に合ったはずなのに、ゆっくりと落ちていく体は無情にも視界から消えていった。

落ちる寸前の泣き笑いの表情だけが、残像として瞳に焼き付けられる。

本当はどこかで気づいてた。見つめる視線に親愛とは別のもっと甘くて切ない感情が込められていたことを。己の中でその想いを受け入れる、受け入れないという選択肢がどちらもなかったから、気づかないようにしていた。

(あいつも、キラもこんな気持ちだったのかもしれない)

ありったけの気持ちを吐露した後、幼馴染の少女が出した答えは是非ではなく、問いかけそのものを違う意味にしてしまった。まるで自分があの子にしたような一番やるせなくなる態度。
結局、自分はあのときと何か変わっただろうか?
幼なじみとの愛とは呼べない幼い恋心を打ち明けた。ただそれだけだ。
キラに知ってもらって、彼がそれをすべて許してくれた上で今も傍にいてくれる。
結局アスラン自身の中では折り合いがついていない。
この子が大事だと思う。この世で何よりも、本人は怒り狂うだろうが、己の命よりも天秤にかければ重いことは明白だ。
ただ最上としている感情の一番根っこになっている部分を覗き込めないでいた。否、考えないようにしていると言っていい。
愛情について考えるとき、アスランにとっては苦くて切ない恋を思い出してしまうから。

「ごめんな…」

痛みで握りしめられたままの拳にそっと触れる。簡単に掌で包み込めてしまえる小さなそれ。
触れれば思い知らされる。肌が本能的に訴えかけてくる。これは守るべきもの、失くしてはいけないものなのだと。

(それでもお前が一番大切なんだ)

この子の幸せを一番に考えたい。望めばなんでも与えてやりたい。
ただ、あの瞬間見せられた強烈な愛情に相応しい感情に応えてやることができるのか。それが分からない。
自分にとっての恋愛対象は幼なじみだ。
意地っ張りで甘ったれで、アスランが知る限り誰よりも情深い少女。目の前にいれば抱きしめたくなるし、自然と唇を重ねたり肌を重ねて、その熱を共有したいと劣情めいた好意が湧いてくる。
他の誰かに、何かに、彼女の心が移ってしまうなら、いっそうこの手が殺してしまいたいという執着心すら見せていた。
それと同じ感情をキラにもっているのかといえば、否だ。
キラに対して抱くのはどこまでも穏やかで温かな慈愛。守ってやりたい、どんな不幸からも遠ざけて、真綿に包むような安らぎを与え続けたい。できるなら涙など流すようなことがないように、と過保護なまでの親愛を抱いている。
これが恋なのか、と自分に問うてみた時どうしても肯定ができない。
ぐるぐると同じところを行ったり来たりする考えは、結局結論を出せずに朝を迎えてしまうのだろう。

包み込んだ拳がゆっくり解けていくのを指先で感じながら、微睡に身を任せた。


――どうか、君に柔らかな眠りが訪れていますように



← Back / Top / Next →