――己に殺意が湧いた
――この腕があなただったらなんて、一瞬でも考えた


その視線の先を知ってる



いつもよりのんびり朝食をとった結果、自席に着いたのが授業開始10分前だった。既にほとんどの生徒が自席かその周辺で他愛ない話をしている。

「はよ、珍しく遅いな」
「おー、ちょっとのんびりしすぎた。それも雨降ってたしな、遅刻するかと思った」
「ねぇ、機械工学の課題してきた?一つ、わからないところがあって」
「やってきたはず。ちょっと待ってろ」
「わーい、ありがとう」

機械工学は一限目だから、早く貸すべきだろうと雨で少し濡れた鞄から課題ファイルを取り出して渡す。
そういえば、機械工学が最も苦手だと豪語していた隣席の主は大丈夫だろうか。隣席に主の姿はなく、鞄だけが律儀に横にかかっているから、既に登校済のはずだ。だが、教室にその姿はなかった。

「キラは?」
「キラ君?今日はまだ見てないけど…、来てるはずだよね?」

比較的、毎朝早い時間帯に登校している女子に聞くが、首を振られる。彼女もキラのカバンを見て、登校していると判断したのだろう。

「もしかして、サボりか?」

最近はなかったのになぁ、と後ろの席の男子が少し寂しそうに呟く。
こいつら、どれだけキラ・ヤマト好きなんだと呆れながらも、見えない姿を探している自分も例外ではないのかと内心苦笑する。
特別教室で自習でもしているのかと結論づけるが、機械工学が苦手だという言葉を思い出して不審に思った。ラスティと疎遠だった頃から、真面目に出ていた数少ない科目を自称優等生のキラが欠席したりするだろうか。
濡れた鞄のせいで、指先にじんわりと嫌な湿り気が移る。窓の外から見える土砂降りの様子に胸騒ぎがして、無意識に席を立ち上がった。

「どうした?もう、先生くるぞ」
「俺、サボりで」
「えー、せっかく課題してきてるのに」
「ごめん、先生に出しといてくれる?」

了承の言葉を聞かずに、教室を小走りで出た。授業が始まる直前の廊下はもちろんのこと人の気配がほとんどない。
朝起きてから振り続けている雨は窓を通り抜けて、激しい雨音を校舎中に響かせていた。
手始めに教室から一番近い食堂へ行ってみたが、無人の光景が広がっているだけ。雨だから屋上は選択肢から消去して、特別教室の別棟へと移動した。
授業開始のベルが鳴って、学校に来ていながら無断欠席するのは初めてかもしれないと、今更ながら己の突拍子もない行動に驚く。
キラと仲良くなってから、どうも自分のペースが崩れていくのを感じながらも、それも不快に思わないから不思議だ。我関せずの主義でマイペースでいるのが居心地が良いと思っていたはずなのに。
図書室の前で目当ての後ろ姿を見つけて、迷わず声をかけた。

「…んだ、ラスティか」

破棄の声が雨音に埋もれながらも、かろうじて耳に届く。
緩慢に振り向いた顔を見て、驚愕した。
茫洋とした瞳がたしかにラスティの姿を捉えたはずのに、ふいと視線が外されて再び背中を向けられる。当たり前のように図書室に入ろうとするから、距離をつめてその腕を掴んだ。
ひやりとした皮膚の冷たさにまた驚かされる。

「お前、真っ青だぞ」
「そう、かな?」

よくわからないや、と細められた瞳はぞっとするほど生気を感じられない。
具合が悪いのを通り越して、正気を失っているのではと危惧するほどだ。
それでも拘束から逃れようと腕をねじるから、こちらも意地になって手首に回した指の力を強くした。

「っ、いたいよ」
「ふらついた体で逃げようとしてるからだろ」
「逃げる、なんて…」

苦悶に歪められた表情に、口元だけが自嘲に象られた。
視線を避けるように俯いていた顔が持ち上げられて、色彩が異なる両の瞳に己の姿が映る。そこでようやく今日初めて目が合ったことに気がつく。

「どこに逃げるっていうんだ…」

苦しげに細められた瞳に宿る光が煌きを増し、涙の気配を色濃く漂わせる。掴んでいない掌で片目を塞いで紫苑の色彩を隠すが、滑らかな頬は乾いていた。
ぽたぽたと雨が窓を伝う音が耳を掠め、わずかに皮膚を通して湿っぽい気配を伝える。
煩わしげに口の端を歪め釣り上げる様子が苦悶を堪えているように見えた。

「痛むのか?」
「なに?」
「だから、その目痛むんだろう?だから、らしくなく苛々してる」
「―っ」

本音を見透かされ故の反応だったのだろう。
驚きに見開かれる瞳。極力動かさないでいたであろう眼球に走った痛みに耐えきれず、その場に蹲る。
ラスティが掴んだ腕だけが吊り上げられたまま。

「離して、よ。お願いだから…」

放っておいてよ、と続けられた声音は苛立ちの下に隠された色濃い淋しさ。

強く、胸を疼かせた。

膝をついて、キラと同じ高さになる目線。
俯いたままで今は見えないけれど、その瞳の色を脳裏で容易に再現できる。残像が焼きつくほど見続けてきた。きっと刻み込まれたのは、初めて逢ったあの雨の日。
掴んだままの手首を引き寄せて、傾いだ体ごともう片方の腕で抱き込んだ。
細見であるが体格差があまりないため、重力に倣って背中から廊下に寝転ぶ。小さく驚きの声が上がって、両肩に掌が置かれた。

「ちょ、なにこれ」

起き上がろうと暴れる体をぐっと抱き込んで、肩口に押し込んだ頭をゆっくりと撫でる。近すぎて表情は分からないが、抵抗が止んで大人しくされるがまま体を預けてくれた。

「…なんで、何も聞かないんだよ」

ぽつりと呟いた言葉を聞いて、聞かれたら困るくせにという答えは胸の内だけに留まらせ、変わらず頭を撫で続ける。

(あぁ、ちくしょう…)

もう認めるしかない。胸の内に燻っていた熱の正体とその所以たる感情を。
好き、なのだ。
この大人びた一面と年相応の無邪気を併せ持ったアンバランスな友人のことが。
最初はただの好奇心だった。それが好意に変わり、穏やかさとはかけ離れた不安定さに魅せられた。あとは堕ちていくように、気づけばキラのことばかり思い出している。

「雨の日が続くと、疼くんだ。あのときに君が言ったこと、すごく驚いた」

すごい記憶力だよね、とくすりと笑う声にはすこしだけ穏やかさが戻っている。
――なぁ、前からそんな色の目だったか?
一目見ただけの名前も知らない相手の瞳が何色だったかなんて、普通なら自分だって覚えていない。思えば、あの時から既に運命的な何かを感じていたのだろうか。

「・・・たまたまだよ」
「僕ね、一度右目を失くしてるんだ。失明してもおかしくなかったって言われてて、でも奇跡的に視神経は生きてたから眼球を移植してもらった」

体の一部を失くしたのだから生来と何も変わりがないわけではない。少しだけ平衡感覚が鈍ったり、左目の視力が低下してしまうくらいの影響はあるらしい。
そして、こうやって湿度が高くなる日が続くと目の奥に疼痛を感じるらしい。

「元の色には戻らないっていうのは知ってたんだ。知ってて、僕は手術するって決めた。けど、けど…っ」

それきり、キラは言葉を紡がなかった。話の続きを促すことも、慰めの言葉もかけられなかった。ほんの少しだけ開示してくれた心に隠された感情があまりにも複雑すぎて、ほぼ平坦な道を歩んできただけの自分にかけるべき言葉が見つからない。ただずっと幼子にするように頭に手をやって、心音を奏でるリズムで叩いた。
しばらくしてから肩に額を僅かに擦りつけ、両肩に置かれた指がぐっと制服を掴んだ気配を感じた。


――本当はずっと前から分かっていた
――この引力に惹かれずにはいられないこと



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