――なんで、この人じゃないと駄目なんだろう
――なんで、こんなに好きなんだろう
その視線の先を知ってる
梅雨の時期らしい曇り空を見上げ、憂鬱な溜息をつく。
天候調整が可能なこの土地に梅雨なんて過ごしにくい時期が必要なんだろうか、とまた溜息をついた。この1週間、雨が降らない日なんてなくて、一日中傘が手放せない。じめついた空気は屋内にも浸透して、心なしか体も重たい気がした。
(なんか、もうずっと痛い気さえしてきた)
ぽつぽつとまたもや降り出した雨から逃げるように、自宅に戻ってのろのろと夕食の準備を始める。夕食といっても、今日はアスランの帰宅が深夜になるらしいから、自分の腹を満たすためだけの簡単なものだ。
優しをごろごろといれた具だくさんのスープは少し多めに作って、アスランが帰ってきてから軽く食べられるように鍋に残しておいた。
温めのお風呂にゆっくりと浸かり、日が沈む頃には自室のベッドで布団を被る。
いつもみたいに図書館で借りてきた本を読んだり、PCを起動させてネサフと称したハッキングまがいな趣味をすることもない。
起きていれば必ず目を動かして使わなければいけない。
それが今のキラにとっては何よりもの苦痛だった。
「雨なんて、降るからだ…」
この痛みに既視感を覚えるようになったのはいつ頃だったろうか。あの出来事が起きた次の年の梅雨にはもう苛まれていた気がする。
キラが、自身の右目に凶器を突き立てた日。
結局、眼球を修復不可能なほど傷つけてしまい、失明を免れるためには移植が絶対条件となった。手術を事無く終えた己の右目にもっとも皮肉な色彩が嵌め込まれた。
焦がれて焦がれて、喉から手が出るほど欲しがった、紫電の瞳。
それと引換にしたものの大きさに気づきかなかった。泣き崩れたアスランの姿を目にして、そこにあったはずの極彩色を失った己の愚かさに気づいた。
(身の程をわきまえないからだ)
成人とみなされる年齢に達したからといって、誰もが大人の名に相応しい賢さを手にするわけではない。
駄々を捏ねて手に入れられるものと、そうでないものの違いを分かっていなかった。否、知っていたくせに分からないふりをして、周りを振り回したのだから尚のこと性質が悪い。
だから、今感じている痛みは、甘ったれで愚かだった己への報いなのだろう。
じくじくと眼球よりもっと奥の神経が疼痛を孕ませて、掻き毟りたくなる衝動を全力で抑える。実際に擦ると、掻痒感が満たされるよりも鋭い痛みが神経を刺激して、手を話した途端際限なく痒みが増すと経験で知っていた。
ただ毛布を被って雨の音を遮り、できるだけ古傷が疼く感覚を遮断する。
「と…さ…」
弱気になると浮かんでくる面影を追い求めて指先を震わせるが、すぐに正気に戻って懲りない己を叱咤し、綿が出そうな強さで毛布をぐっと掴み込んだ。
そんなことばかり、繰り返す。
雨の気配など早く過ぎて二度と戻ってこなければいいと、痛む目を刺激しないようそっと瞼を閉じて無理やり眠りに落ちた。
温かい掌が頬を包んで、触れたところから柔らかな熱が注ぎ込まれる。
ほっと息を吐き出してから初めて自分が寒気を感じていると気が付いた。
幼い頃、まだ戦艦に乗っている意味も母が何を守っているのかも知らなかった頃。昼夜を問わず、揺れ動く不安定な地面がまるで意地の悪い生き物のように感じて、母にしがみついて寝ていたことをふいに思い出した。
与えられた熱がその時に撫でてくれた母の掌に少し似ていたから、既視感がおぼろげな記憶を引っ張り出したのかもしれない。
「…?」
名前を、呼ばれた気がした。自分のことを。
意識が浮上して、右目の疼痛が覚醒を促した。
寝て起きていれば痛みが治まってるだろうと安易な期待は現実にはならず、夢の世界に帰りたくなった。
まだ頭の隅でうろうろしている微睡の尻尾を探そうと意識を沈めようとして、ふと背中の違和感に気がつく。毛布よりずっと温かな何かがぴったりと寄り添っている。
首筋に僅かに触れた寝息に確信した。
恐る恐る瞼を持ち上げると、背中から両脇を通って、胸の前で組み合わされた長い腕が目に映る。
警報や僅かな振動が大きな戦いの前触れだった戦艦生活が長いせいか、気配には人並み以上に敏感だ。ましてや、痛みに神経を苛まれながら浅い眠りに落ちていれば、ドアの開閉音やベッドが軋む些細な音でも気になって覚醒させられるはずなのに。
こんなに傍に寄られて、抱きしめられる形で触れられて、目覚めないのはその気配に慣れ親しみすぎたせいで。そんなことができるのは二度と会えなくなった母以外、この世にはたった一人しかいなくて。
「…っ、父さんは、ずるいんだよ」
こんなの卑怯だ。
唇を噛みしめて、吐息に近い声音で相手を詰った。
そうでもないと言葉を紡いだ瞬間、抑え込んだ感情が崩壊して嗚咽が漏れそうだった。
同じベッドで眠るのはあの出来事以来、ぱったり止んでしまった。キラ自身、どんな顔でアスランの部屋に入っていいか分からなかったし、どこまでの距離が親子として普通なのか、己自身の蓋をした感情を刺激せずにいられるのか、測りかねていた。
元々、母が恋しくなってしまった夜にアスランのベッドに潜り込むような形で一緒に寝ていたから、自然と回数は減った。
今ではたまにアスランが寝入ってしまったキラの隣に入ってくるぐらいだ。そしてそれはだいたい、こういう雨の日が続く夜に限られる。
目が痛いなんて言葉にしたことはないし、素振りも見せていないはずなのに。弱っているときを正確に嗅ぎつけて、柔らかな熱を与えられる。当たり前のように分け与えて、翌朝には普段と変わらぬ顔でおはようと挨拶をしてくる。
同じベッドで眠った日は絶対にアスランの方が早く起きてしまうので、キラが目覚める頃には温もりさえ毛布には残っていない。一番始めは昨晩のことが夢なのか現実だったのか認識が曖昧だったほどだ。
包んでくれる暖かさに救われて、必要以上に核心に触れない柔らかさに歯噛みした。近いようでいて確かな溝がある優しさこそ、今の自分たちの関係を現しているようで少しだけ寂しくなった。これ以上は近づけないのだと、思い知らされる。
(それでも、僕は父さんのことが…)
お腹で組まれた掌に己のそれをそっと重ねる。
一つの毛布で熱を共有しているせいか、ほとんど温度差は感じない。きっとキラ以上に気配に敏感なアスランでも、これぐらいなら目覚めることはない。
「すき……だい、すきだよ」
相手が覚醒しているときには絶対に篭められない感情をこれでもかと織り込めて、口先だけで囁いた。
吐息に近い告白は本人以外の耳には届かず、空気を僅かに震わすだけで消えていく。
胸の内で燻り続けている想いもこんな風に、誰にも知られることなくいつか虚しく朽ちてしまう時がくるのだろうか。
アスランのいう親愛に変わる日が訪れ、なんのてらいもなく、だいすきと口にできるのだろうか。
「ごめ…ね、僕はまだ――」
眠ってしまえと己に言い聞かせて、ゆっくりと目を閉じた。
優しさと愛情の種類を間違えて、惑乱するのは今だけだ。
きっと朝になれば、この温もりは消えてしまう。
だって自分は絶対に敵わない相手を知っているのだから。
近くにいて、簡単に熱を分け与えられるから、都合の良い解釈をしてしまおうとするのだ。
最後の曖昧な記憶さえ、重ねた指先を握り返される感触だったのだから、もう哂ってしまうしかない。