背伸びしてあごにキス
朝起きると身支度を整え、まず最初にキッチンへと向かう。コーヒーメーカーをセットして、簡単な朝食を一人分だけ作る。時間があるときには、夕食の下ごしらえをすることもあった。
元々、家事が自分の性にも合っていたことから、アスランと暮らし始めて5年以上経った今では同年代の少年少女たちの母親並みの家事能力が身につくほどで。ハウスキーパーを呼ばずに掃除や洗濯がこなせるようになったのは、随分前だった気がする。
母は家事能力が皆無だったとフレイから聞いたことがあり、さらに暮らし始めた頃はアスランが平日の朝や休日には要領よく食事を作ってくれていたから、この性質は父親から受け継いだものなのだろう。
「おはよう」
「おはよ」
ほどなくして、軍服姿に身を包んでいながらも、まだ完全に覚醒しきれていない父が起きてくる。新聞とコーヒーを差し出すと、ようやく眠たそうな瞼がしっかりと持ち上がった。
軍務に忙殺されて、不規則になりがちなアスランに食事を摂らせるのもキラの役目だ。朝はコーヒーのみで、サラダもフルーツも胃が受け付けないらしい。甘いものを苦手とする好みを心得て、ほとんどがブラックコーヒーを出すのだが、疲れているときや調子の悪いときは少しのミルクや砂糖を足したりもする。お昼はお弁当を頼まれれば作りはするが、テイクアウトや簡単な外食ですますことが多いのが常だ。
「いつもありがとう」
「何を今さら。今日はお弁当いらないんだよね?」
自然に紡がれる感謝の言葉が耳にくすぐったくて、頬が少しだけ熱くなる。毎朝同じことを繰り返しているのに、いつまでも慣れないままあ照れくさい気持ちにさせられた。
「あぁ、昼頃はラクスと外にいるはずだから」
「ラクスが一緒なら安心だ。ちゃんとお昼も食べてよ」
歌手として、平和大使として、議員として、ラクスはザフトと関わる機会が多い。昔二人は婚約者だとディアッカに教えてもらったときは、どうしてもアスランの隣に立つラクスの姿を想像できなかった。
彼女はキラの知っている女性の中で、一番綺麗で透徹としている。何事にも曲げることができない芯の通った人だから、誰かの傍に寄り添う姿に違和感を覚えた。
何よりも父の隣で幸せそうに微笑む母の姿を、脳裏の中だけでも鮮明に思い描ける。きっとそれがすべてを語っている。父の相手は母以外ありえなくて、彼女こそが恋人であり妻であり、そしてキラの母なのだ。
(敵わないよなぁ)
悲観的ではないと言えば嘘になるが、数年前の最も酷いときに較べると心は凪いでいた。一度突き抜けたのが良かったのかもしれない。今ではただただ父の母への想いを、母の父への想いに感嘆するばかり。
幼い記憶の中の16歳だった彼女は、今の自分よりもずっと大人で器の大きい人間に思えた。こんなときに思い知らされる気がする。
自分は所詮子どもでしかない、と。
「仕方ない、よね…」
文字通り命を懸けた戦いをしながら、戦場に身を置いていたのだ。二人とも敵と対峙して戦わなくてはならない境遇にいた。子どものままではいられなかったに違いない。
「何か言ったか?」
「ううん、何でもない」
小さな呟きを拾い上げられ、ゆっくりと首を振って笑うことで心配しないでと誤魔化した。話してもどうしようもない悩みで、困らせるようなことはしたくない。納得しきれない身勝手な自分を胸中で叱咤した。
今の暮らしが、関係が、一番居心地の良いものであると知っているからこそ、大事にしていきたいと強く思う。
「いってらっしゃい」
「あぁ」
玄関先まで見送って背伸びをして手を伸ばすと、意図に気がつきアスランが身を屈めてくれる。
曲がった襟を直して、唇の下の尖った顎の部分に触れるだけのキスをおくった。
「気をつけてね」
「お前もちゃんと学校に行けよ」
「僕は優等生なんだから、ちゃんと行くよ。心配しないで」
「そうだったな」
時間にすれば一秒にも満たない触れ合いは毎朝の日課。どちらから始めたのか、よく覚えてはいない。今でも当たり前のように、お互い受けとめている。
これは恋人のキス?それとも親愛の証?
きっとしているキラにもされているアスランにも分からないような曖昧な境界線が横たわっている。
それを超えたら家族ではなく恋人になれるのか、恋人ではなく家族になれるのか以前に、自分たちがどうになりたいのか曖昧だからこそ、簡単に飛び越えられるはずの線を跨ごうとしないのだろう。
恋人のキスにしては気恥ずかしさやときめきが足りない気がするし、家族のキスにしては甘い空気の密度が高すぎる気もした。