隣の席に置かれた鞄を認めて、首を巡らすと昨日の放課後に見た同じ光景があった。違うのは今、彼が背負っているのは赤く染まった光ではなく、朝の白い光。
「おはよう」
「律儀なんだな」
「だって約束したじゃない」
「やくそく…」
するりと当たり前のように返された言葉に驚いて、軽く目を見開いた。
約束、とはあの軽い調子で交わした会話のことを指しているに違いない。
「あれ?違った?」
首を傾げて不思議そうにしている様子からは冗談の延長にも見えなくて、心からの言葉だと分かった途端、笑わずにいられなかった。
拗ねた表情で席をついたサボり魔を視界にとらえて、また笑いが込み上げそうになるのを必死で我慢するのに苦労した。
濁らない水 / 背負えない片翼 / 微笑ましい愛欲
周囲の視線をやけに集めているのはきっと気のせいではない。1コマ目から教室にいたためしのない神出鬼没のクラスメートが、さも当たり前のように朝から席についているのだ。
それも隣の生徒と親しげに話しているとなれば、聞き耳を立ててしまうのは、仕方ないと思う。
「ところで今日の講義内容は知ってるわけ?」
「生物学とプログラミングを2コマ、それから体育と外国語でしょ」
「生物学が歴学に変更になった」
「うそ…よりによって歴学なんて」
キラ本人は穴があきそうなほどの視線を集めながら、気づいていないのか敢えて気づかないそぶりをしているのか、涼しい顔をして机の中から参考書を取り出している。
「苦手科目は歓迎して受けるんだろ」
心底嫌そうな表情を浮かべる横顔を不思議に思って、素直に呟いた。
歴学は比較的キラの出席率が上位に位置する講義だ。すると、昨日の話からすれば苦手分野の一つになるのだろう。
「歓迎なんてするわけないじゃない。受けなきゃいけないのは分かってるけど、心の準備が必要なんだよ」
「ヤマト君って歴学が苦手なの?」
「でも学年トップでしょう」
前の席に座っていた女の子たちが振り向き、突然会話に入ってきた。聞き耳を立てて、いつ話に加われるか様子を見ていたのだろう。
「歴学は違うよ」
「そうなんだ」
「でもさ、歴学はよく講義受けてるよね。苦手なのにどうして?」
「?苦手だから出るんでしょう」
なぜそんなことを聞くのか分からないと、はっきりと顔に書いてあるかのような表情でキラは昨日と同じ返答をした。やはり驚くだろうと、周囲の反応を見てとって大きく頷きたくなった。
「…クソ真面目だ」
今度はラスティの隣から少年の声が上がる。
気づけば、知らないうちにラスティとキラの机がクラスの中心になっている。性別すら関係なく、皆がキラ・ヤマトという人間に強い関心を持っているのだと実感させられた。
「そうかなぁ、だってこうやって学べる環境があるところにいられるのって、すごく貴重でしょう。そしたら、やっぱり自分にできることはやっておかなきゃいけないと思うんだ」
「なんか…ちょっとびっくり。ヤマト君ってこんな人だったんだ」
「もっと世の中を馬鹿にした奴だと思ってた」
「何それ。そんなに悪いイメージがあったんだ」
「だってお前講義に出てこないじゃん」
男子生徒の突っ込みにもっともだと周囲が一斉に頷くと、罰が悪そうにぽつりと呟く。
「…眠たくなっちゃうんだよ」
「ヤマト君が言うと、可愛い理由に聞こえる」
(いや、可愛いとかいうレベルじゃないだろう…)
本人は一言で済ませてしまったが、眠たくなるの裏にある理由は講義内容が彼にとって簡単すぎるからだ。得意な分野や好きな講義にまったく出てこないのは、彼の知識量がそこでのレベルを当に越えてしまっているのだろう。一度として出ていない講義での修了テストで学年トップの成績をとってしまうのが、何よりもの証拠だ。
「でもっ、これからは毎日ちゃんと出席するよ」
「どういう心境の変化」
「誰かを困らせるのは良くないことだから、改めようと思って」
「困らせるって誰を?」
じっと大きな紫と翠の瞳が隣へと注がれる。スライドする形で視線を一気に集まるのを感じて、勘弁してくれと心の中だけでぼやいた。
「まっ、隣の権限?」
軽い調子で返せば、まだ聞き足りない周囲の瞳がさらに生き生きと輝く。しかし誰かが口を開くよりも先に、始業のチャイムがなり、歴学の講師が教室に入ってきた。
蜘蛛の子を散らすように周囲から人がいなくなり、二人して歴学の参考書に視線をやったまま、自然と会話が続く。
「僕、同い年の子達とあんなに長く話したの、初めてかも」
「どんな生活を送ってきたら、そうなるんだ?」
「君も1年ぐらい戦艦に住めばいいよ」
世界が広がるよ、と続けられた突拍子のない言葉に驚いて、つい隣へと視線をやってしまう。やはりそこには冗談など微塵も感じられない横顔があって、比喩にしては不適切な表現だったからこそ、その言葉が彼にとっての事実だと悟って、二度驚いた。
「…いろんな意味で、人生観が変わりそうだな」
素直な感想を呟くのと同時に講師の話が始まり、会話はそこで有耶無耶になってしまう。キラからの返答がなかったから特に気に留めることなく、2コマ目のプログラミングが始まる頃には、すっかり記憶の中から抜けてしまっていた。