濁らない水 / 背負えない片翼 / 微笑ましい愛欲
放課後、運悪く遭遇した担任に雑用を押し付けられ、帰宅部のためいつもならば当に帰宅している時間帯になってからようやく解放された。
教室には未だに授業を受けたままの状態になっている机を思い出して溜息が出る。これから片づけをして、家に辿り着く時間をざっと計算して尚更憂鬱になった。
誰ともすれ違うことなく教室まで辿りつき、人気のない静けさに包まれる校舎はいつもと違う顔を見せる。馴染んだ雰囲気を感じさせないそこは別世界のように思えた。
無人と信じて疑わなかった教室に、見慣れない姿を認めたものだから、一瞬部屋を間違えたのかとさえ思ってしまう。
混乱してしまうのは仕方ないと思う。なぜなら、目の前にいたのはここ数日ほとんど姿を現さなかった実物なのだから。
「…レアキャラ」
鳶色の髪と象牙の肌。抜けるような白い肌にコーディネートすることが多い同性代の中では珍しい色彩である。しかし、触れると滑らかそうな柔らかな色合いは白い肌よりもずっと貴重なもののように思えた。
人の気配に気づいたのか、背を向けていた人物が振り返る。強烈な吸引力で引き寄せられるのは、エメラルドとアメジストの一対の瞳。
「それって僕のこと?」
一瞬、何に話しかけられているのか分からずに奇妙な間が開いてしまう。しかし、その問いかけがラスティに対するもので、さらには先ほどの独り言を受けての言葉だと気づいて合点がいった。
「あれ、聞こえた?」
「うん、ばっちり」
僕、耳はいいんだ、と応える声は少年というよりも少女のように甘い音をしている。
「で、お前はなんでこんな時間まで残ってるんだ?キラ・ヤマト」
「あれ、フルネームで知ってるなんて驚いた」
「お前、有名人よ?」
「初耳だよ。おかしいなぁ、こっそりしてるつもりなんだけど」
「堂々と授業サボってるのにか」
「だって、つまらないんだもん」
あんな内容今更だろう、と恐ろしい発言を世間話のような軽やかさでやってみせる。
仮にも富や名声を有した大人たちがこぞって子どもを通わせたがる、よりすぐりの優秀な人間を集めた学校で言う言葉ではない。ここより偏差値が高い学校はまずナチュラルの学校にはないだろう。プラント内で一二を争うカレッジのはずなのだが、学年首位の少年にとってみればそれさえも物足りないらしい。
「たまに顔を出す授業は面白いって?」
「僕、機械工学は苦手なんだ」
「…案外、真面目なのね」
普通、苦手だったり好きではない授業をさぼったりしないだろうか。そもそもサボる理由が「つまらない」だから、学ぶ価値のあるものとしては正しい選択なのかもしれない。
すると、強烈な色彩を嵌め込んだ瞳が驚きに軽く見開かれて、心外だとも言いたそうに怪訝に潜められる。
「何言ってるの、僕優等生でしょう」
「あはは、それ冗談?」
「そういう君こそこんな時間まで何してるの。寝過ごしたとか?」
「俺は担任の雑用係で捕まってたの。寝過ごしたのは、お前だろう」
「………」
予想に反して返されるのは沈黙。
バツが悪そうに、居心地の悪そうな表情をしている年相応の顔が覗いて、そんな顔もできるんじゃないかと心の中で思う。
「あれ、図星?」
「うるさいなぁ」
想像していたキラ・ヤマト像とは随分と違う印象に驚いたが、意外にも会話していて疲れないことに気がつく。なんというか、気を遣わず思ったことをそのまま口に出せる気軽さがキラには感じられた。
じっと大きな瞳に見つめられ、そういえばと紡いだ唇から続いた言葉はひどく間の抜けたもの。
「君、だれ?」
「そんなことだろうと思った。ラスティ・マッケンジー、今のお前のお隣さん」
「…知らなかった」
「だろうな」
お前がとんでもなくマイペースな人間だってのはよく分かった、と呟けば不服そうに唇を尖らせる。子どもっぽい仕草に噴き出してしまい、さらに怒らせてしまう。
「で、お前はこの時間まで何をしていたわけ」
今日は授業に一度も出てこなかったから、一日中この校舎のどこかで過ごしていたのだろう。
随分と軽そうな鞄を手にしていることからも、授業を受ける気がなかったのだろう。そもそも、彼は定期的に顔を出す授業以外の教科書やテキストは購入しているのか、それすら怪しい。
「プログラミング室でメールチェックしてから保健室で寝て、図書室で本を読んでたらいつのまにかこんな時間に…」
「なんで、学校に来たんだよ」
「アスランが見送ってくれたから」
行かなかったら怒るんだよ、と渋い顔をされる。くるくると変わる表情に目が離せなくて、随分と感情豊かな人間なのだと思った。
「アスラン?」
「僕のおとうさん」
「ザフトの英雄と同じ名前なんて、随分男前の父親だな」
若干16歳で、プラントの軍事組織・ザフトのエースパイロットとして活躍し、フェイスまで上り詰めたアスラン・ザラは、男であるならば一度は憧れる存在だ。
「それ」
「は?」
「だから、そのザフトの英雄が僕のおとうさん」
何よりも彼が英雄と呼ばれるようになったのは、ヤキン・ドゥーエの戦いで、地球連合軍とザフト軍の戦いを制した第三勢力のMSパイロットとして、歴史上に名を連ねたからでもある。己の信念を貫くためにザフトを抜けて、正義をかざした姿はまさらに英雄そのもの。停戦された後はプラントに在住し、ザフトからの熱心な誘いから数年前に復隊を果たした。
「初耳ですけど…ヤマト君」
「だって初めて言ったんだもん。マッケンジー君」
「うわ、やめて。ラスティでいいから、ファミリーネームも君づけもやめて」
「じゃあ、僕もキラでいいよ。ラスティ」
そう言って、笑った顔が日も沈んでいるはずなのに眩しく見えて目を細めた。ラスティと奏でる軽やかな音はどこか甘さを含んでいて、心地良く鼓膜を震わせる。
「ザフトの英雄の息子がこの学校にいるなんて、今までよく知られなかったな」
学校中の噂になってもおかしくないだろうに、顔が広い自分が知らないということは噂の一つもないということだ。
「そういえば誰かに話したの、初めてだ」
「ほんと、今さらだな。お前何年ここに通ってるんだよ」
どうやって生活をしていたら、そんな重大な事実を隠したまま過ごしていけるのか。ここの学校の連中はただでさえコネクション作りや、牽制の意味合いで互いの家のことに探りを入れる光景が日常茶飯事になっているはずだったのだが。
「こうやって、クラスの子と話すのも初めてだからなぁ」
僕、こんなに長く喋ったのは初めてだと呟く少年は、極度の人間嫌いにも人見知りにも見えなかった。今まで親しい友達がいないのが不思議なくらい。
「明日からちゃんと授業に出ろよ」
「それは隣の権限?」
「隣がいないと、作業するときに何かと困るんだよ」
「そっか、そんなことまで考えてなかったな」
「で、明日は授業に出るんだろうな」
「とりあえず、明日の時間割を教えて」
またもや出てきた予想していない間の抜けた言葉がツボに嵌った、腹を抱えて笑ってしまった。