今でも思い出すことがある。
例えば、泣き始める直前の曇り空を見つけたとき。
しとしとと雨が降り出した光景を眺めているとき。
雨上がりの湿った空気の匂い嗅いだとき。
もう随分前の些細な出来事であるはずなのに、なぜこんなにも記憶が鮮やかなのか分からない。
自分はたまたま居合わせた通行人でしかなかった。
きっと「彼」は自分のことなど記憶の欠片にも留めていないだろう。
自分は泣き顔も、声も、掌から感じた冷えた体温さえ鮮明に思い出せるのに。
どうしてだろうと考えたときに、ようやく納得できる答えを見つけた。
――何かに心を奪われたのは、初めてだったのだ
濁らない水 / 背負えない片翼 / 微笑ましい愛欲
「ラスティ、今日の放課後の予定は?」
名前を呼ぶのは最近よく行動を共にするクラスメート。
カレッジとは名ばかりの、幼年学校同様にクラス制を取り入れている環境のせいか、自由よりも協調性がしばしば重視されるのは仕方ないことだと思う。
コーディネーターでいうと成人してから3年も経つというのに、未成年時と変わらない周囲の環境に内心辟易しながらも、ラスティはそれを楽しむだけの余裕もあった。
元々容量の良い分類に入ることを自覚し、ある程度周りと足並みを揃えることも苦ではない。
この学校に通う生徒はいわゆる良家あるいは裕福な家の子息子女であり、校風も影響しているのかマイペースだが温厚で比較的善人が集まっている。
生温くて時折退屈さを感じなくもないが、決して過ごしにくい場所ではなかった。
「いや、特に入ってない」
「よかった。先週できたばかりのダイニングバーに、マーサたちと今夜行くんだ。一緒に行かないか?」
「飲んで食べるだけ?」
「合コンとかじゃない。メンバーはこのクラスの奴らばっかりだし」
前回、同じような誘いにのって飲み屋に行くと、見知らぬ女の子たちが同席しているテーブルに無理やり座らされたことがあった。
それを分かってか、違うと首を激しく振って、参加するメンバーをずらずらと挙げていく。確かにここのクラスの者ばかりだったから、今回は信じてやることにする。
「わかった」
「よっしゃ、それじゃ放課後にまた声かけるから」
「おう」
学校ではそれなりに大人しくしていても、優等生というほど褒められた素行でもない。
その加減を上手く図りながら過ごす学生生活は、まさに人生のモラトリアムに相応しい。後数年後に社会に出れば許されないことがたくさんあるのだから、大目に身ともらえる今だけは気ままに過ごしたいという気持ちが強いのだ。
「そういえば、ナンシーがキラ・ヒビキを誘ったらしいぜ」
「来るのか?」
「まさか。遅くに家は出れないとかで、断られたって」
それにしてもさー、と少年の視線はラスティの席の隣に注がれる。
先週の席替えから隣になったのは、今話題になったキラ・ヒビキ。
「あいつのこと知ってる奴、この学校にいるのかね」
「教師は知ってるだろ」
「そうじゃなくて、あいつと仲がいい奴がいるかってことだよ」
いつも一人でいるだろう、と言われ確かにと頷きたくなってしまう。
休憩時間になれば、自席でぼうっと空を眺めたり、ふらりと教室を出て行ったと思えば、次の授業が開始されても帰ってこなかったりする。
それでも成績は学年トップに近い数値を叩き出すらしいので、教師も強く言えないらしい。
「確かに不思議だな」
いくら成人しているからといっても、まだまだ多感な十代に周りの視線が気にならないなんてことはない。
誰かと一緒にいることで安心感を抱いたり、一人でいることに脅迫に近い恐怖を感じる者もいる中、キラは常に一人でいた。
自分のことどころか、少しも話そうとしない無愛想なクラスメートを皆が遠巻きで見てしまっている状況もさして気にならないらしく、マイペースに毎日学校に来ている。
「ヒビキなんてファミリネームの知り合いなんて、誰もいないってみんな言うしなぁ」
あらゆる業界に張り巡らされているこの学校のコネクションをもってしても、中々正体が分からない。
知られたくないという本人の意思が強く表れているように思えて仕方なかった。
「それもさ、あの瞳。俺、正直あいつの顔を正面からは見えないわ。だってさ、ちょっと迫力があるだろう?」
「あぁ、両目の色のこと」
「そう、紫や緑一色でも結構珍しいのに、それが同時にあるとなんか落ちつかなくてさ」
確かに印象的な瞳をしていた。右目に嵌め込まれたアメジストと、左目に嵌め込まれたエメラルド。
輝石にも劣らない輝きは見るものを魅了し、そして畏怖さえ抱かせてしまう。
(恐いっていうよりも、そうだな…)
最近、よく見かける横顔を思い浮かべるとアメジストだけが垣間見える。
光の虹彩で濃淡を変化させる様に、思わず目を逸らしたこともあった。
「綺麗だろう」
「…お前ってやっぱり大物だよ」
そんな一言が溜息と共に吐かれたと同時に、休憩終了のチャイムがなり参考書を抱えた教師が入ってきたため、相手は席に戻る。
90分の講義中、何度も隣を確認してしまった。
結局、その時間帯にラスティの隣が満席になることはなかった。