――もっと強い人だと思っていた
――けれど脆いからこそ、「いとおしい」なんて
――そんな気持ちを抱いたんだ


叶えられることのない約束



「どうして俺を置いていったんだ」

空の上へと旅立ってしまった母に対しての慟哭なのか、血の繋がりを厭い無理やり断ち切ろうとした息子に対しての悲嘆なのか、恐らく本人にも分かっていないのだろう。
肩を震わせ、皮膚が引き攣れそうなほど強い力で抱きしめられ、胸元から匂い立つ雨の匂いに、キラ自身の心まで染み込んできて苦しくなる。
無防備で今にも崩れそうなこの人の恋は、母が逝ってしまったあの日からずっと止まったままであることを改めて実感した。恋心をすべてその宇宙へと置き去りにして、残った心をだけを引き千切ってここにいるのだと。
どれほどの痛みを孕んだまま、想い人と瓜二つの息子と共に生活をして苦しくなかったのだろうか、と純粋に尋ねてみたくなった。

「やっと触れられたのに、やっと好きだと言えたのに、これで幸せになれると、思っていたのに…」
「…っ」

完全に母とキラを混同させた言の葉。
少し前ならば、その一音が鋭い刃となって胸を突き刺して、耐えがたい激痛をもたらしていたに違いない。
今だって、痛みを感じないわけではない。しかし、痛覚に勝る別の感覚が刺激されて少しも気にならなかった。

(これくらいの痛み、父さんに比べれば…)

大切な人を失くし、何年もその喪失感に苛まれた苦しみに比べれば、こんなもの我慢できない痛みではない。
幼すぎて知らなかった。愚かで分からうとしなかった。
この世には、泣けないほどの苦しみが存在することを。

「いいよ。それで父さんが少しでも楽になるなら、母さんの代わりにもなれるよ?」

キラが自分だと認識してくれなくても、きっと大丈夫。自分よりも大切にしたくて、守りたいものを見つけたのだ。今にも壊れてしまいそうなこの人の心を、何よりも一番に守りたい。

「――っ、…ちがう。そうじゃない」
「え?」

キラ、と呼ばれる。アスランの唇が確かに、自分の名前を紡いだ。
襲いくる数多の痛みを堪える表情と縋りつくように肩に触れる指先に、胸の一番奥にある柔らかな部分を鷲掴みにされる。
重ねたいわけじゃない。身代わりなんかじゃないと、囁かれる。

「同じなわけがない。あれは、あの恋は俺たちだけの間であったものだ。誰にも共有することなんて、たとえお前がキラの血を引いていたとしてもできない」

愛に変わる前に真っ白な灰になってしまった二人の恋だったから。

「いや…こんな思いをお前までする必要はないんだ」

幼すぎて、変容してしまっていることにすら気がつかずに、盲目的に虚像の相手に傾倒してしまった愚かで愛しくて尊い恋。
二人以外の誰かが触れていいものではないと、境界線を引かれたのかと思ったが、そうではないらしいと二言目で気がつく。昔の大切な恋を語っているはずの父の顔は、満たされているそれとは真逆の強烈な渇きにもがき苦しむ痛々しさに彩られていた。
ゆっくりと顔を覆う逞しくて大きな両手は、寒くもないのに小刻みに震えている。

「幸せだと感じたことも確かにあったはずなのに、思い出せば苦しいことばかり蘇る。ずっと胸の奥を貫いている棘が抜けなくて、息ができないくらい苦しくて、死ぬよりも恐ろしいんだ」

その感情の名を、キラは知っていた。
それは今よりもずっと幼かった頃、大天使の名を冠する戦艦で宇宙を彷徨っていたとき。唯一のMSのパイロットであった母の時間を自分一人で独占ができなかったときに芽生え始めた。
母が壮絶な激戦で行方不明になったとき、戦艦を降りて母と離れ離れとなったとき、母の喪失を知らされたときに、その感情は少しずつ膨らみキラの胸を占拠してずっと疼くような痛みを与えてきた。
アスランが訴えている痛みは、きっと長い間キラを苛ませてきたものと同じに違いない。

「父さんはばかだ」

口元に浮かぶのは自然と唇が持ち上がる。こんな状況で微笑む意図が分からないのか、濡れて彩度が増したエメラルドが次の言葉を待っていた。

「自分の心にはすごく鈍感で、自分を大事にしてないんだね」

軍でも頭がきれると有名なのに―ディアッカに教えてもらった―、なぜこんな簡単なことも分からないのだろう。
幼かった自分でさえ気がついた誰でも知っているはずのありふれたそれ。
きっと気がつかないのは、自分という存在をいとおしんで顧みてあげていないからに違いない。この人の心はきっともうずっと昔から悲鳴を上げて助けを求めていたのに、外にばかり注意を向けていたために内側のサインに耳を傾けていなかったのだろう。

「それを 淋しい 、って言うんだよ」

心が冷たい水に浸されているような虚しくて、苦しくて、痛みさえ孕んでしまう感情。
きっとこの冷たさに触れ続けていれば、いつかしか鼓動が止まって人は死んでしまえる。

「…っ!」

一度大きく目を見開き、自身が発する悲鳴に気がついた途端、くしゃりと音を立てて崩れる表情。
堪え切れない嗚咽が雨の気配と共に空気に溶け、湿度を上げていく。
大きいはずなのに頼りなくて脆く思える背中に腕を回し、肩に顎をあてて首を傾けた。触れている部分から淋しさが自分のところへと移って、この人を苛み続けてきた疼痛を吸い取ってあげられたらいいのにと思う。
だって、母の喪失をきっかけに容量を超えそうになっていた淋しさを吸い取ってくれたのは、父の不器用で優しい温もりだったから。
家族愛だとか、恋人としての愛だとか、無償の愛だとか、そんなのどうでもいい
ただ今は、この可哀想で愚かなほど自分を大切にしない人を癒すことができるのならば、どんな形の愛でもいいから捧げたいと思った。
彼の子どもとしてでも、妻としてでも、恋人としてでも、兄弟としてでも。きっとこの人のためならば、自分はどんな愛情だって抱けて、どんな役割だって担えると本気で思える。

(母さん…貴女に、誓うよ)

母が子を身篭り生む決心をした13歳のとき、自分はどんな形になっても愛する人の傍にいる決意をした。



――貴女もこんな気持ちだったのでしょうか?



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