――ごめんなさい、ごめんなさい
――だから、どうか、泣き止んで
泣かないで
――綺麗、だったのに
搾り出された苦しげな呻きにも似た音と、その言葉をきっかけに忘れていた思い出がよみがえる。自分の気持ちを追いかけるのに精一杯で、目の前に差し出された上辺の現実の苦さにばかり捕われて、忘れてはいけない大切な記憶を蔑ろにしてしまっていた。
あんなにも褒められたではないか、綺麗だねと大好きなのだと母に言われ続けて愛しげに触れられた優しい感触を思い出し、心臓を直に掴まれたかのような痛みを覚える。
そして何よりも、父に初めて出逢った日の色鮮やかな瞬間。
帰ってくると結局約束できないまま別れてしまった母の帰りを待ち続け、焦がれて、ようやくその日が来たのだと期待に胸を膨らませてオーブの港に訪れた。
不安と期待とが交互に押し寄せてきて、怖いけれど見ずにはいられない複雑な心境が胸の動機を早くさせ、きっと母の姿を見なければ落ち着かないだろうと長く感じられる待ち時間を過ごした。
フレイに名を呼ばれたとき、母に会えると歓喜に震える心は怖さよりも嬉しさが大きくなって、転ぶと危ぶまれるほど駆け出した。
けれど希求し続けた母の姿はどこにもなくて、代わりに見知らない男の人が話しかけたのだ。
とても優しく穏やかな声で。
そしてそれ以上に、笑っているのにキラと目が合った瞬間に瞳が細められて、エメラルドグリーンが鋭痛に呼応するかのように一際煌きに目を奪われた。
なんて、悲しげで美しい彩なんだろうと。
父親なのだと告げられたときは信じられなかったけれど、綺麗だと思った瞳の色が自分と同じだと気がついたとき、初めて出逢った人との血の繋がりを確かに感じたのだ。
母がこの世からいなくなってしまい、悪い予感が当たってしまったことには酷く落ち込み悲しんだけれど、きっと父との出逢いがなければ未だに立ち直れなかったかもしれない。
(どうして、忘れてたんだろう)
こんなにも大切なことを忘れていられたのだろう。
母が中心で、それがすべてだった狭く小さなキラの世界を広げてくれた人のことを。その人は今キラが好きなアスランであり、そしてまぎれもなく肉親である父だった。
逞しく広いと思い続けてきた両肩が、今は縮こまって小刻みに震えて小さく見える。
俯いてしまった顔を今は見れないけれど、苦悩に滲んだ言葉を吐き出したとき確かにその頬には一筋に涙が伝っていた。
「とう、さん…」
ベッドを軋ませ身を乗り出して、父の頭を抱きこむように胸へと押しつける。ことりと胸に落ちてきた重みは確かに大人のそれなのに、酷く頼りなげに思えた。
しとしとと、室内なのに雨の匂いがする。外は憎らしいくらいの晴れ間が広がっているというのに。
じわじわと胸元を濡らしてく涙が匂いが、元なのだと気がついてたまらなくなった。
ぎゅっと、両腕に力をこめてきつく抱きしめる。声に出したら先に嗚咽が零れそうだったから、ごめんなさいと心の中で何度も何度も呟いた。
手酷く傷つけていたなんて知らなかった。泣くほど悲しませていたなんて気がつかなかった。この人の気持ちを、分かろうとしなかった。
すべては己の浅はかさが招いた結果。
こんなに強い人が、泣く、なんて夢にも思っていなかったのだ。
母はいつも凛としていて綺麗に笑っている姿に強さを感じていたけれど、同時にとても弱い人でもあった。涙こそ数える程度しか見なかったが、戦闘から帰ってくる度に泣き笑いの表情を浮かべてはキラをきつく抱きしめていた。まるで縋りつくみたいに。
けれど、父は違う。
一度も会ったことがない息子を慈しむような笑顔で向かい入れてくれて、時には母を恋しがって涙を零せば逞しい腕の中で慰めてくれて、すべてのものからその強靭さでキラを守ってくれた。弱さ、なんてないと思っていた。
唯一、死んでしまった母のことを想っているときは今にも消えてしまいそうな頼りない表情をしていたけれど、それは母のための表情であって、キラにとってのものではなかった。
しかし、いざ箱を開けて中身を見ているとどうだろうか。
この人だって、本当はとても弱い人だと、淋しい人なのだと思った。
自分のために流された涙が、自分のことを思って曝け出された悲しみが、自分によって形成された弱さが、愛しいと思ってしまう。
この人を駄目にしたのはきっと自分なのだ。
きっと母を亡くしてもキラの存在など知らずに一人で生きていれば、弱さを弱さとせずに振舞って、悲しみなど感じることなく強いままで生きてきただろう。
こうやって人前で涙を流すなんて、間違ってもなかったはずだ。
(僕が父さんを弱くした…)
母にはできなかった。息子であるキラだからこそ、アスランに与えたであろう変化。
弱さを弱さとして認めさせたことはきっと悪いことではないかもしれない。けれど、良いことだとは言い切れない。それなのに、
(嬉しい、だなんて……)
そんな風に思ってしまう昏い感情を孕んだ心はもう、壊れてしまっているのかもしれない。
自分にとって特別な人が、自分の存在にこんなにも色濃く影響される歓びを一体なんて表わしたらいいのだろう。
13歳の自分には到底思いつかない。この先年を重ねて見聞を広めても、この感情の名前は一生見つけられないんじゃないかと思った。
だから腕が回りきらない背中を懸命に抱きしめ、宵闇色の髪がくしゃくしゃになるくらいにきつく抱き込んで、この人の弱さを守っていけるようにと希い続けた。