泣かないで
真っ白な部屋の真っ白なベッドの上で、自分の手で潰した右目が視力を取り戻すのは絶望的だと他人事のように医者の話を聞いた。
今の医療技術ならば、適した「目」があれば右目にも光を取り戻せるらしい。
ただその目は人工的にあるいはドナー提供者のものであって、キラがもって生まれたそれを捨ててしまうことを意味していた。
「左右の虹彩が有する沈着状態が異なるので、左右の瞳の色が――」
「…いいです」
「今の瞳の色とまったく同じものをご用意することは不可能ですが、よろしいですか?」
親身になってくれる医者や看護婦の言葉を他人事のように聞き流して、窓の外に広がる青空を見つめる。
大好きで大嫌いな青色に染まった空がかつてないほど狭く見えて、この世界が窮屈で退屈なものに思えて仕方ない。
「そんなこと、いいです」
感情の起伏がうかがえない声音が奏でた言葉は、白い箱の中で酷く空虚に響いた。
本気でどうでもよかった。
自分で潰した右目が一生何かを映さなくても、光を宿さなくても、開くことがなくても、不便に感じてもそれがキラとアスランの血の繋がりを色濃く表したものだとしたら、取り戻したいと願わないだろう。
欲しかったのは、血の繋がりじゃなかった。
もっと崇高で、綺麗で、そしてキラの胸を切なく焦がすもの。
かつてアスランがたった一人の少女に注いでいた、美しい恋情そのもの。
(母さんと同じじゃないのなら、何だって変わらない)
キラがキラである限り、欲しいと希ったものは手に入らないのだと思い知った。
どう足掻いても与えられないのならば、もう諦めるしかない。だから欲しいものなんて、もうどこにもありはしない。
自分の体が潰れた右目から腐り今ここで朽ち果てても、後悔することはないだろう。
「後悔は、しないかい?」
「…はい」
後から頭を抱えて悔いるほどの執着心など、空っぽになってしまった心のどこを探しても見つけられないのだから。
手術は成功しましたよ、と看護婦に話しかけられたことを、まだ麻酔が抜け切れていないふわふわした状態でぼんやり覚えていた。
そのとき、包帯の下に嵌め込まれた瞳はもう自分のものではないのかと、自分の一部にまったく異なるものが組み込まれているはずなのに違和感がないことに奇妙な感覚を抱いた。
無事に移植手術が終わり、包帯が眼帯に変わり、眼帯が外せるようになるまで一ヶ月ほどかかった。
時折、痛みにうなされて夜中に目が覚めることもあったが、それよりも事件直後に言い争ったきり会話らしい会話をしていないアスランとの関係の方が苦しかった。
お互いの笑顔をどこかに忘れてきた状態のまま、激務であるはずの軍の仕事の合間に病室に訪れては無言でキラの世話をする父と対峙した。
半ば、お互いに意地になっていたところもあっただろう。
冷戦状態のまま、初めて眼帯を外す許可がおりた日。
アスランが見守る中、医者の手で右目に当てられていた白いガーゼが外され、一ヶ月下ろしたままだったの重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。
「――っ」
一瞬、あまりの眩しさに瞳を細めて光の量を調節した。
見えますか?と尋ねられた問いに頷き、簡単な検査をしてから拒絶反応がないことを確かめられる。
「明日にはもう退院しても大丈夫でしょう」
「はい、ありがとうございます」
お大事にという言葉と共に扉の外へと消えた白衣をぼんやりと見つめてから、視界が擦れていることに気づいて思い出したように瞬きをした。
自分の存在がちっぽけなものに思えるくらいに、久しぶりに両目で捉える視界は広かった。
「満足か?」
医者に頭を下げるばかりで一言も発さなかったアスランが、ぽつりと呟いた言葉に最初は反応できなかった。
久しぶりに鼓膜を震わす声音に思慕の情が湧き上がる。
「…え」
振り返った先にある姿見に映る自分の姿を認めて、目を見開いた。
光を取り戻した右目に嵌め込まれた色彩に驚きを隠せずに、しばしそれを見つめてしまう。
そこにあるのは厭い続けた新緑ではなく、喉から手が出るくらいに欲していた紫紺。
大好きと同じくらい妬ましかった母の象徴である極彩色が、今自分の一部となって息づいている。
きっと左目を隠してしまえば、母の面影を色濃く引き継いだこの身は生まれ変わりのような姿になってしまうに違いない。
そして、アスランの問いかけが何に対してのものか、ようやく理解する。
「それで満足か?」
再び鼓膜を震わせたのは、先ほどよりも幾分か小さく頼りなげに響いた音は後に僅かな寂寥感を漂わせる。
視線をずらせば、酷く悲しそうで沈痛とした表情がキラの瞳を見つめていた。
確かに、自分はずっと願っていた。
この双眸に宿る色彩がキラにとっての極彩色、アメジストであったのならば、と。
そうすれば、きっとアスランからキラが望む「愛」を得られるだろうと、盲目的に信じていた。
しかし、実際に手に入れてみて自分の世界は何か変わっただろうか。
「綺麗、だったのに」
遠い日の記憶に埋もれていた母の言葉が思い出される。
まだアークエンジェルに乗っていた頃、地球と同じ色のパイロットスーツを身にまとった母が何度も何度も繰り返していた言葉。
――この色はね、お父さんから受け継いだ色なんだよ
ことあるごとに母は、この瞳の色が好きなのだと愛しげに目元を辿ってくれた。今にも泣き出しそうなのに、今まで見てきた中で一番綺麗な笑顔浮かべて。その頃の自分は、それが何よりも誇らしく感じていたはずだったのに。
「――っ!」
深緑の双眸が果てない寂寞に揺らめき、溢れた悲しみが音もなく頬を伝っていった。
あんなにも忌み嫌っていた瞳の色が、たった一つの言葉で、たった一粒の涙で極彩色に変わる。
失くしてから初めて気がつくなんて、愚かにもほどがある。
(あぁ、僕は、ぼくはなんてことを………)
なんてことをしてしまったのだろうと、自分が犯した罪の大きさを知る。
望んだものを手に入れるどころか、欲しかったはずのその人の心を手酷く傷つけてしまった。