――神さま
――あの人が手に入るのならば、愚かな子どもみたいに泣き喚いたっていい


自分だけのものであれば



すぐに飛び出したい衝動を押し込めて、ことさらゆっくりとフレイの家を出たとき、見送った彼女の表情は不機嫌に象られ、怒りの感情に僅かに滲み出された憐れみの彩を見た気がして、一度も振り返ることなんてできなかった。
ひどく、みじめだった。
自分の存在理由が見いだせなくて、どうして生まれてきたんだろうとさえ思ってしまう。
一歩一歩、地に足を踏み出しているはずなのに、胸の内に抱えている醜悪で滑稽な感情があまりにも生々しくて、硬いコンクリートの感覚が遠く思えた。
じわりと空気が湿り気を帯びて空が曇りだし日の光が遮断され、キラの姿に影を落とす。
つうと頬に流れたものが一筋の道を作り、その部分が髪を揺らす乾いた風に当たって酷く冷たく感じた。
1つきりだと思っていた道がいくつも形成され、頬を中心にして顎と首にまで伝わり冷たさを皮膚に伝える。
雨が降ってきたのかと、鬱陶しげに乱暴に掌で拭うと雨粒であるそれがやけに熱く感じられた。
空を見上げれば、暗雲に覆われた空は潤み始めているように見えるが肝心の雨はまだ降ってはいない。

「……うっ」

意図しない嗚咽が己の唇から零れたとき、初めて気がついた。
泣いて、いることに。
涙の気配にちっとも気がつかなかったから、我慢する暇も与えられずに溢れ出した涙を自覚した途端に呼吸さえ困難になるような息苦しさに襲われる。
吐き出されるのは、意味のなさない嗚咽と熱すぎる涙。
ずっと我慢していた涙はまるで今までの分もすべて合わせたかのような勢いで留まることを知らない。
恥も外聞も頭に掠りもしないくらいに、往来で嗚咽を殺すことなく泣き続けた。
胸が苦しくて、頭が痛くて、胸が疼いて、体中がもう限界だと悲鳴を上げている。
初めて好きになった人との恋に見込みなんてこれぽっちも持てなくて、けれど諦められるくらい簡単で小さな想いでもなくて、自覚してからずっと苛まれるのは痛くて苦しいことばかり。
追い討ちをかけるかのように、ぽつぽつと雨が降り出してあっという間に本格的などしゃぶりになってしまい、キラの全身を濡らした。

「うぇ…っ、あっ、……ぁあ」

泣き声は激しい雨音が掻き消してくれて、零れ続ける涙も雨粒が共に洗い流してくれる。
肌に叩きつけられる強かな雨に可能ならば、体中に染みついてしまっているアスランへの想いもすべて剥がして流してくれればいいと願った。
自分からは捨てることができないから、抵抗できないくらいの強靭な力で奪い取って欲しかった。
立ち止り、掌を額に押し当てて俯く。
雨か涙か分からない雫がぽたぽたと地面にできた水溜りに落ちて、小さな波紋の1つとなる。
何気なく視線を落とした水面には、ぐしゃぐしゃになった誰かの顔が映った。
朱鷺色の髪と象牙の肌から連想したのは、自分の中でずっと年をとらないまま行き続けている大好きで大好きで大切で、けれど強烈な羨望を抱くあの人。

「――かあさ…」

もっとよく見ようと目を凝らしてみると、水面に現れたのは誰をも魅了する煌いた紫電ではなく、大きいばかりで濁った光を滲ませた新緑。
瞠目した瞳が絶望の色でこちらを見つめて、はっとした。
違う、これは違う。
母ではない。
父が愛して、今でも忘れられずにいる女の顔ではない。

(どうしようもなく愚かな子どもだ…)

これ以上、醜悪な自分の顔を見ていたくなくて、無意識に数歩後ずさった。
ふらふらの体は後退する足にうまくバランスが取れなく、背中から地面へと傾いだ。

「わっ!?なんだ」

硬いコンクリートの衝撃に襲われるはずの体は、地面よりも弾力のあるものに支えられてバランスを取り戻す。
刹那、雨が止んで、零れ続ける涙だけが頬を伝った。

「びしょぬれだぞ。大丈夫か?」

どうやら、往来で立ち往生して通りがかりの人にぶつかってしまったらしい。
雨が止んだと思ったのは、その人がさしている傘の下にいるからだ。
みっともない泣き顔を誰かに見られたことに居たたまれなさを感じたと同時に、ふわりと冷え切った肌に染み込んでくる温かさが涙腺に拍車をかけて、搾り出したのは泣き声に近いものだった。
驚愕に見開かれた青空色の瞳が何に驚いたのかなんて、熟考しなくても容易に分かる。

「お前、泣いて…」
「ふ…っ、ごめんなさい」

ぶつかったこと、服を濡らしてしまったこと、醜い泣き顔を見せてしまったこと、すべてに謝罪をする。
共に添えるはずだった微笑みすら上手く作れなくて、心の中でもう一度謝っておぼつかない足取りで離れた。
向かう先はやはり家しかなくて、そこにアスランの気配が色濃く残っていても、キラが帰る場所はそこしかない。
もしもアスランが家にいたら、ずぶぬれになった自分の姿を見て心配してくれるだろう。
冷えた体をバスタオルで包んで抱きしめてくれるだろう。
分かっているからこそ、苦しいのに足はそこへと向かう。
強烈な恋慕と疼痛がせめぎ合って、自分が本当はどうしたいのかよく分からない。

キラ、と

きっと、名前を呼んでくれる。
父親が息子に向ける柔らかで穏やかな愛を注いでくれる。
生前、母は自分に言っていた。
アスランが“キラ”と呼ぶ音がとても幸せな気持ちにしてくれる、と。
だからキラ自身にもその幸せを味わってほしいと大切な名前をくれた。

(けど、お母さん……ちっとも幸せなんて感じないよ……っ)

浮かぶのは一抹の淋しさと切なさ、そして大好きだったはずの母への醜い嫉妬。
アスランが“キラ”と呼ぶ度に、どれほど母が彼に愛されていたのかを思い知らされて泣きたくなった。



愚かな子どもでいたくないけれど、痛いのも苦しいのも嫌だと駄々ばかりこねていた



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