――最悪の形で見せつけられる
――自分がこの人の一番にはなれないことを
眩暈を起こすような
日課と化している健全な寄り道をした後に夕食の材料を手に家へと帰る。
鍵を差込み開錠しようとすると既に鍵が外れていることに気がつき、玄関にきちんと揃えられている革靴を見つけて、既にアスランが帰宅していることを知った。
最近、キラが意図的に避けるようになってからすれ違いの生活をしてきたものだから、相手が父親だというのに久しぶりに顔を合わせることに緊張し全身が強張るのを感じる。
(ちがう、父さんだから…)
父親ではなく、アスランだから、密かに想い焦がれている人だから、緊張する。
どんな顔をしていいいのか分からなくなる。
もう、キラにはどれが父親を慕う子どもとしての表情なのか普通の境界線が曖昧になってきた。
しばし靴を履いたまま逡巡していたが、立ち尽くしていても仕方がないとのろのろとキッチンへと向かう。
リビングへと続いている広めのキッチンには明かりがついていなく、この大きな部屋の住人の不在を告げていて、顔を合わせる瞬間が延びたことに安堵の溜息を吐いた。
キッチン側だけ明かりをつけて、夕食用の食材以外は冷蔵庫に詰め二人分の夕食を作るべく、調理道具を取り出す。
できるならアスランがこちらに顔を出す前に食事の用意を終えてしまいたいと、心持ち手元は忙しなく動いていた。
だから、リビングにいた人の気配に全く気がつかず、あまつにも背後に立たれても振り向くことすらしなかった。
「…こんなところにいた」
鼓膜を震わすのが先だったのか、それとも肌を震わすのが先だったのか。
恐ろしく熱っぽい塊に無防備な感覚が逆撫でられ、手にしていた箸を落として小さな音を立ててシンクの中へと転がり落ちる光景が視界を通り過ぎる。
あまりにも現実とかけ離れすぎた事態に何が起こったのか、一瞬理解できなかった。
後ろから回された両腕の感覚を知っているはずなのに、記憶の中の温かで柔らかな雰囲気を伴ったそれとは似ても似つかない。
耳元に触れるやわやわとした感触を覚えたと同時に、ちゅっと小さな水音が立てられる。
「おれは、おまえを…さがして…」
吹き込まれたのは紡がれた音だけではない。
触れたものをぐずぐずに溶かしてしまうような熟した吐息が耳朶と鼓膜を濡らし、熱に浮かされた思考と共にくたりと強張っていた体の力が抜けて、図らずとも後ろへともたれ掛かる体勢になる。
体重を預けたことに呼応して、体を拘束している腕の力が強くなる。
密着すると服越しでも伝わってくる熱すぎる相手の体温に驚愕して、首筋に触れた熱に濡れた舌の感触があまりにも猛々しくて、今自分を抱きしめている相手が誰か分からなくなる。
「――っ」
生々しい雄に触れる恐怖と熱に染め上げられる歓喜が同時に湧き上がる。
父親としてアスランならば全部知っていると自負していたし、たった一度だけ垣間見た恋人に向けたアスランの痛みや悲しみが溶け込んだ甘さも知っていた。
偶然にも邂逅したその切ない甘さに惹かれ、それがキラがアスランに抱いている「好き」に付随する感覚なのだと知って焦がれた。
それなのに、それなのに、
(こわい、だなんて…)
夜更かしをする子どもを嗜めるために触れられた掌の温度に物足りなさを感じ不満を持っていたけれど、実際に欲していた熱を有した体が肌に触れると恐くなった。
遠くから眺めていただけの灯火はとても綺麗に見えるけれど、実際に皮膚を容赦なく焦がす火は凶器でしかない。
分かっていたつもりで対等な大人としていたつもりだったが、所詮大人ぶった子どもでしかなかったことを気づかされる。身を竦ませたまま拒絶できれば、どれほど良かっただろうか。
そうすれば、少なくとも自分の認識の甘さに打ちひしがれるだけで済んだのに。
(っ、…ひどい)
回された腕を振りほどけば楽だったはずの掌を、恐怖さえ抱かせる熱が灯った皮膚に重ねる。
触れるところが少しでも広がったことに、愛しいのだと思えて仕方がない心が宥められた。
それでも揺らぐことはない焦がれた想いはきっと憧れではないし、親愛ではない。
ましてや幻想などではない。
(僕、この人が好きなんだ)
「好き」の重みが増す。これ以上ないくらい膨らんでいるはずの想いがまた一回り大きくなる。
「…キラ」
吐息さえも伝わる位置で囁かれた音に絶望を感じる。
熱っぽく求めるその人の声が呼ぶのは、自分と同じ名前の死んでしまった恋人。
「…ど、して」
込み上げたやるせない思いと共に吐き出した言葉は決して大きな音ではなかった。
それでもアスラン自身が紡ぐ以外の音に反応する訓練で研ぎ澄まされた理性が、浮上する充分なきっかけにはなったようだ。
痛いくらい抱きしめられていた腕の力が弱まり、隙間なく埋められた二人の間に境界線が生じる。
振り返り、翡翠の瞳に同様の色彩の己の瞳の色が映し出され、色が重ねられることで深みが増して深緑へと変化する。
恐らくアスランの視界にも同様に溶け合わされた深緑がキラの瞳に映っていることだろう。
そして、その色彩がアスランを現実へと引き戻し、父親へと戻してしまう。
「キラ?」
同じ音なのに、響きが違う、伝わる熱が違う。
完全に離れてしまった体を惜しむように、心が悲鳴を上げる。
「お前、いつ帰ってき――」
「ねぇ、今…僕を誰だと思った?」
あなたが探していたのは、誰?
あなたが抱きしめたかったのは、誰の体?
聞く者を切なさで焦がすほどの熱を灯して呼んだのは、誰の名前?
分かりきっている答えが呈されることはない。
離れてしまった体がとても冷たく感じて、惨めさを煽る。
「ヒビキ?それとも…」
アスランが探しているのは、新緑を嵌め込んだキラではない。
彼が探し焦がれ求め続けているのは、輝石よりも美しく高貴なアメジストを有した――
「“キラ”?」
「――っ!」
答えられずに衝撃に目を見開き、息を詰めるのが何よりもの証拠。
叫びだしたい心にひたひたと染みこんでくる絶望が冷たさを伝えて、叫びごと封じ込めゆっくりと凍らせていく感覚に陥る。
母と瓜二つのくせに、唯一異なる瞳の色に対しての嫌悪感が募った。
まるで出来の悪いイミテーションみたいだ。
もう、笑わずにはいられなかった。