――願うのはあの子の幸せだけなのに


眩暈を起こすような



思い始めたのは、もういつだったのか覚えていない。
もしかしたら、体温の高い小さな掌に初めて触れたときからだったのかもしれない。
残ったのが母親だったら違ったのだろうかと、後ろ向きなことを考えていたのは随分昔のことで、幼子を1人置き去りにして家を出ることが苦痛でならなかった。
母を喪った悲しみを癒すどころか、傍にいてやる時間もまともにとれず、淋しい思いさえさせていただろう。
それなのに、文句1つ言わずに、泣き顔を1つ見せずに、いつも笑顔を送り出し、迎えてくれた存在は、アスラン自身の癒しとなった。
真っ白な温かな波動に触れた初めて気がついたのだ。
自分が思っていた以上に、彼女の死の打ちのめされ傷心していたということを。

――やっと…捕まえた

二度と熱を灯すことのない肌に触れたとき、眠っているのではないかと錯覚してしまうほど安らかな死に顔に涙を落とした。
彼女の死を嘆いて零した涙をたったそれだけだ。
キラに会うまでは慣れない戦艦で過ごし、緊迫した戦況を見守ることだけに精一杯で自分の中の悲しみと向き合う時間をとることができなかった。
キラと共に暮らすようになって、束の間の平和を継続させるために相変わらず忙しい生活を送っていたが、キラと共にいる時間は自分の中の大きな傷痕と向き合う時間にもなった。

(俺が、癒されてどうする…)

本当ならば、小さな胸に刻まれた傷痕こそ、この手で労わりそして慈しんで綺麗に直してやりたいと思っているのに。
自分の行動が空回りしているという以前に、父親である己が息子であるキラに甘えすぎているのだ。
なまじ、こちらの肩の力が抜けてしまうほどの包容力があるから手に負えない。
いったい、あの精神のふくよかさは誰に似たというのだろうか。
アスランもキラもお世辞にも人のことまで気を回すことができるほど器量は良くない。
そのせいで行き違いを生み、些細な誤解と曲解が命をかけた殺し合いに発展するほど関係がこじれたこともあった。

「先ほどから溜息ばかりですね」

思考の深い部分まで沈み込んでいた意識が、外界からの刺激で浮上する。
目の前には1つ年下の同僚が笑みを絶やさない顔でこちらを観察していた。
見慣れた顔に今自分がいる場所が、職場――つまり軍だ――のカフェテリアであり、同僚のニコルに誘われ少し遅いランチを食べていたことを思い出した。

「悩み事ですか?」
「いや、たいしたことじゃないんだが…」
「“たいしたこと”という様子じゃありませんよ」

心配されるほど溜息ばかり吐いていただろうか。
皿の上には冷め切ったリゾットがぐちゃぐちゃにかき回された状態で放置されていて、もう口をつける気がなくなってしまいスプーンから手を離した。

「ヒビキのことですか?」
「…そんなに分かりやすいか?」
「いえ、あなたが悩むとしたらヒビキぐらいしか思い当たりませんから」

自分の思考回路が単純だと暗に言われているような気がして、不快ではなく図星である自分の底の浅さに苦笑してしまう。
ニコルの言う通りだった。確かに自分はキラのことばかり考えている。

「見合いをしないとかと言われて、受けようかどうか悩んでいるんだ」
「…お見合い、ですか?何も初めてのことじゃないでしょう。今まで相手の顔を知る前に断ってきたあなたがどういう心境の変化ですか?」

そもそも、キラのことと何の関係もないじゃないですかと笑顔を消し、ニコルが不可解な表情を露にする。

「母親が必要だろう?」
「…それこそ今更です」
「最近考え始めたことじゃないんだ。ずっと前から思っていた」

父親として未熟な自分1人だけが関わっているだけでは、キラのためにならないのではないかと。
最近、キラとの間に薄い壁のようなものを度々感じて、父親である自分ではその柔らかだが弾力のあるそれを破れないことを痛感する。
もしも、彼女が生きていれば、母親という存在があれば、その壁を取り払うことができるのではないかとしきりに思う。
昔のように隔たりのない関係を築いていけるのではないかと、人任せな願望を抱いてしまうのだ。

「そもそも、そういう理由でお見合いをするのはどうかと思いますよ。その方はヒビキのお母さんになる前に、あなたの妻になる人なのだから」
「………」
「ヒビキはとてもいい子です。きっとどんな女性だって息子にして邪険にすることはないでしょう。けれど、夫である貴方からちゃんと愛情をもらわないと夫婦として成り立ちませんよ?」

意図的に目を瞑っていた部分を突かれて、言い訳の1つも口にできなかった。
今までも上司や同僚から独り身であるアスランに、そういった目的で知人あるいは遠縁の女性を紹介されたことがあるのだが、他人事のように応答していた。
他人と一緒に過ごす時間を苦痛に感じ、キラ以外誰も傍に置きたくないと思ってしまうし、未だに自分の隣に誰かが立つということが想像できないでいる。

アスランの恋人はきっと、生涯でただ1人だけだ。



血の繋がりがあるからこその安心感なのだと理解していても、あの子以外の傍にいる自分が想像できなかった。



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