――恋情どころか殺意さえも攫ってしまった一人の女に
――今は温もりを失った鮮やかな想い出に、どうしたら超えられるというのだろう。
――どんな感情の大きさも数も敵わない
――あの人の中で母以上の大きな存在を刻み付けることなど叶いはしないのだ
触れられない
友達のいう“たった一つの好き”がアスランに向けられるものだと分かったからといって、アスランに対しての“みんなに対する好き”がなくなったわけではない。
世界でたった一人の血の繋がった父親としての彼との過ごした記憶は何よりも尊いものだし、息子のキラに与えてくれた愛情は偽りのない本物であるとちゃんと自覚している。
淋しいという孤独感を知っているのだって、共に過ごす温かな時間を知っているからこその感情だ。
温かな時間を知らなければきっと一人でいることに淋しいと感じたりしないだろう。
父親としてのアスランを何よりも必要としている子どものキラが存在している。
「キラ、こんなところで寝たら風邪引くぞ?」
「…ん、とうさん?」
いつものように一人の夕食を済ませてから何をするのでもなく、ただテレビをぼんやりと見ていたのだが、どうやらソファで眠りこけてしまったらしい。
暖房はとっくにタイマーで自動的に止まってしまい、冬特有の肌を刺す冷気がキラを包み込んでいる。
「…さむ、い」
「薄着で暖房もつけずにいるなんて自殺行為だぞ」
少し怒ったような声がして、大きな掌が頬に寄せられる。温かな人肌の熱に自分の体が思っている以上に冷え切っていることを知った。
いつもはキラよりも体温がわずかに低い冷たい指が、今は暖かく感じられて心地よさにほうと小さな吐息をついて胸を撫で下ろす。
僅かな暖を感知した肌の部分からまたとろりと眠気が戻ってくるのを感じた。
「こら、寝るのならベッドの中で寝ろ」
「…んー、わかった」
「分かってないだろう。目を閉じるな、こら聞いてるのかキラ?」
空返事を見抜かれて、耳元で口うるさく注意されるが心地よい眠りにはどうしても抗いがたくて瞼が開けられなかった。
頬に触れていた掌が髪をくしゃくしゃと掻き回し、形の良い後頭部をぽんぽんとあやす様に触れる。
「いい子だから、自分の部屋に行きなさい」
まるで大人が子どもに言い聞かせるみたいな甘くて、けれど半透明の膜に包まれた言葉。
(みたい、じゃない。実際にそうなんだ)
これがアスランが認識する二人の関係。そして世間一般が、キラ以外の誰もが思っている正しい関係。
もちろん、キラ自身だって分かっている。嫌というほど承知している。それを否定することはできないし、するつもりもない。
けれど、不用意に、そして当たり前のように触れられるのがどうしても耐え切れないときがある。
「――っ」
大量の冷水をかけられたかのように、ふわふわと漂っていた意識が急速に冷え込んで明瞭になる。
心地よかったはずの眠気が霧散して、同時に軽い絶望感とやるせなさが胸の内で膨らみだした。
(分かってる、これは僕の我侭)
許容できるとそうでないときの違いなんて、この気持ちを知らないアスランが分かるはずもない。
これは受け取る側のキラ自身の問題であって、アスランが態度を変えているわけではないのだ。
髪を撫でられることが好き
――不意打ちだと鼓動が収まらないから困る
優しい陽だまりみたいに微笑む顔が好き
――こっちまで切なくなるような笑顔は向けてくれない
すっぽりと包み込んでしまう大きな掌が好き
――嫌でも大人と子どもの違いを見せつけられる
キラ、と甘く呼ぶ声が好き
――でも、それは熱を孕んだものじゃない
子どもに対して触れるアスランと、好きな人に触れられるキラとの噛み合わない感情。
「そんなに…っ」
そんなに簡単に、まるで何とも思っていないかのように…否、実際何とも思っていないのだ。
所詮、アスランにとって自分がその程度の存在なんだろう。
父と子ども、それ以上でも以下でもない。
気がついたら、髪に触れていた指を叩き落していた。
突然の拒絶に驚きを隠せずに、エメラルドの瞳を大きく見開くアスランの姿をぼやけた視界が映す。
けれど、その瞳には息子に対しての疑心など微塵に感じられない。
ただあるのは、わけがわからない戸惑いだけ。
どこまでいっても交わることのない愛情だけが空回りしていく。
「そんなに簡単に触らないでよ」
僕の気もちなんて知らないくせに、知ろうともしないくせに。
勝手に決め付けて、息子っていう強固な枠に嵌めようとする。
でもと、もどかしさに掌をありったけの力で握り締めれば、爪を立てた皮膚がじわりと鋭い痛みと熱さを教える。
(それだけじゃ、足りないんだよ…)
どれほど手を伸ばしたって届かない。