――父さんの好きは母さんだけのものなんだって、そんなこと知りたくなかったよ。
理由なんかない
思い出すだけで、胸を指す痛みで目の奥がちかちかと白く光るような声がある。
昔は一番大好きだった言葉だったからこそ、実際に聞かなくとも容易に再現することができるから性質が悪い。
鋭い痛みだけならばまだ良かった。
それなのに幼い頃に与えられた柔らかな甘さも共に覆いかぶさってくる痛みは、それが激痛だと嫌というほどに分かっていても、痛みが遠のいて甘さだけが記憶に残ると再び引き出そうとする。
そうして相見える身を引き裂く疼痛に細くなった神経がさらに張り詰められていった。
何度も、何度も、馬鹿みたいに繰り返していく。
ぎゅっと、肌に食い込むほど強く胸元を握り締めた。
肌の表面を刺激するちっぽけな痛みでは、その奥を苛む痛みを和らげることすらしてくれない。
早朝にアスランを見送った日、学校から再び家に帰ってきたときにはやはりアスランの姿はなくて、顔を合わせなくてほっとしたのと同時に姿を見ることができなくて淋しく思う。
鍵を開けて玄関に足を踏み入れると、今朝の出来事が蘇ってきて動きを止めた。
――愛してるよ
今日一日だけでいったいどれほど繰り返しだろうか。
数えるのも馬鹿らしい回数分だけ、実際に聞いたときと同等の痛みをこの身に蘇らせた。
乱暴に靴を脱ぎ捨てて、鞄を持ったまま自分の部屋へと向かう。
この家はアスランの気配ばかりしていて、それが今は辛い。
唯一、父の気配が薄れる自室へと逃げこんで固く扉を閉じてしまう。
少しでも開いていればその隙間からアスランの気配が入り込んできて、必死に押さえ込んでいるキラの気持ちさえ絡めとってしまいそうで恐かった。
寂寥、恐怖、羨望、恋慕、憎悪。
あらゆる感情がぐちゃぐちゃに交じり合って誰に向けていいのか分からない激情のままに、鞄をベッドに投げつける。
一度ベッドに沈み込んだ鞄は反動で跳ね返り、ごとりと低い音をたてて床へ転がった。
それだけでは飽き足らずに、手近にあったクッションや雑誌を手にとって次々に投げつけていく。
(――っ、足りない)
足りない、足りない、こんなものじゃない。
増すのは焦がれて飢えて焼けつく感情ばかりで、欲しいのに到底追いつかない。
「父さんの“愛してる”と僕の“愛してる”は、違うんだよっ…!」
キラ、と自分以外の誰かを呼んだ声音が、触れた指先の熱さが、染みついてこびりついてもうずっとずっと頭から離れない。
それなのにあの音を聞くこともあの熱に触れることも許されているのは、後にも先にも既に天に召された母だけ。
決してキラに与えられても良いものではなかったのだ。
切なさで塗り固められているくせに、泣きそうに歪むくせに、疼痛に反してその心は何処までも甘やかで。
ありったけの感情を詰め込んだに等しいそれはたった二文字だけれど、その中身は膨大なものだった。
胸を鈍く疼かせる痛みの正体がやっと分かった。
甘く優しいだけの“愛してる”などでは、全然足りない。
悲しみも苦しみも淋しさも怒りも、負の感情も全て全て自分に向けてほしい。
かつて母と父の双方を苦しめた誤解から生じた行き違いの憎悪さえも、今は羨望の対象だった。
あまりの惨めさにこみ上げた涙が視界を濁らせる。
(僕は、この人のぜんぶが欲しいんだ…)
父親としてのアスランだけではない。
男として、大人として、一人の人間としてのアスラン・ザラが欲しい。
すべてを曝け出してほしい。
「ははっ、なんて欲張り」
自分の感情であることが信じられないくらい、底の見えない欲望に嗤ってしまう。
なんて図々しいのだろう。
浅ましいの一言に尽きる。
あの人は母さんのもの。
それは未来永劫変わることのない事実あり、真実。
それなのに無理と分かっていても、恥知らずと知っていても、諦めれず求めてしまう。
こみ上げてくる涙のわけが悔しさか惨めさか恋しさかは定かではなかったけれど、視界を滲ませても涙を流すことだけは絶対にしたくないと嗚咽を飲み込んで歯を喰いしばった。
そうして目を閉じれば、静寂に包み込まれている部屋で記憶の中にある愛してるだけが鼓膜を震わせた。