――恋を知ったその瞬間、失恋をしました。
――だって相手は決して敵うことはない、あの人の永遠の恋人。
――そして大好きな母親だったから。
好き。
とろとろとした眠気と肌を包み込む穏やかな暖かさが心地よい浮遊感をもたらしてくれる。
一番に目にしたのはソファーのクリーム色で、そこまできて漸く自分が寝ていたことに気がついた。
テーブルの上には飲みかけのカップが二つ置かれていて、茜色の光に照らされている。
気がつけば夕方になっていたらしい。
昼食を食べ終わってから一休みのつもりでいたから、随分と長い昼寝をしていたものだ思った。
体を起こして立ち上がろうとしたときに、傍らに頭だけをソファーに預ける形で眠っているアスランの姿を見つける。
この人がこんなにも長い時間熟睡しているなんて珍しい、とその寝顔を見つめて、日々の激務に疲れているのだろうかとぼんやりと考える。
平気な顔で無理をするのがスタイルだから、誰にも気づかれないまま疲れを溜め込むことが多いのだ。
この休みの間で少しでも休養がとれていたらいいなと、抱く気持ちが柔らかくなる。
起こさないようにと慎重に踵を床につけて、そっと腰を浮かせた。
しかし今までそこにあった重みをなくしたソファーは歪みを直すかのように、ぎしりとその形を変える。
それは僅かな動きだったけれど、気配に敏感なアスランの覚醒を促すには十分すぎるもので、微動だにしなかった頭がぴくりと揺れた。
(あー、起こしちゃった…)
失敗してしまったと胸中で大きな溜息をついて、まだ寝てていいよ、と彼の眠りを促すつもりで唇を開いた。
音がするよりも早く、伸ばされた掌が細い手首を掴む。
驚くくらい強い力だった。
「わっ」
だから踏ん張ることができずに、引き寄せられるまま頭からアスランの胸へと落ちて抱きしめられる形となる。
相手のことを考えない強すぎる抱擁。
こんな風に抱かれるのは初めての経験で。
そして、耳元に熱く濡れた気配がして体に緊張が走った。
「キラ」
甘く、熱く、それでいて苦しさに掠れたそれ。
信じられない音が平然と耳元で囁かれ、鼓膜を強く揺さぶる。
「――っ」
思わず息を詰めた。
(………え?)
それはいつもの慣れ親しんだ父親の声ではなかった。
溶けてしまうのではないかとさえ危惧してしまいそうな、甘く穏やかなだけの音ではない。
甘さと穏やかさは健在しているが、それよりも悲しみ、苦しみ、淋しさといった痛みの感情が浮き彫りになった複雑な声音。
こんな複雑で、感情が溢れてしまいそうな声など知らない。
音に感情を織り成しすぎて掠れるなんて考えこともなかった。
「こんなとこ…に……いた…か」
キラの肉づきの悪い体を逞しい両腕が逃がさないとでも言うかのように、強く抱き込んだ。
頬を押しつける形で触れた場所はちょうど心の臓がある左胸。
とくとくとゆっくり鳴っている鼓動と普段よりもずっと高い体温が、彼の熟睡を物語っている。
時折額に掠める控えめな寝息からもそれが窺えて、だからこそ呟かれた言の葉の重さを痛感した。
きっと寝言で嘘をつけるような人ではないから。
これは、この“キラ”は自分ではない。
息子のキラを呼んだのではなく、今彼が呼んだのはキラという名前を与えてくれた同じ名前の母親。
アスランが思い続けてきた女の人の名前。
頭をとんでもなく硬い鈍器で殴られたかのような衝撃が体中を発して、それから目に見えない何本もの細い針に心臓のあたりをじくじくと突かれるかのような痛みを感じた。
(あぁ…そうか)
痛みに苛まれる思考が行き着いた、答え。
とうとう気がついてしまった。
否、ずっとその片鱗に見ないふりをしていただけでとっくに気づいていたのかもしれない。
「……すき、なんだ」
父親であるこの人のことが。
アスランという男を家族としての愛を寄せているのと同時に、それ以上の“好き”を抱いている。
これは特別の“好き”だった。
クラスメートが話をしていた一人だけにしか使わない“好き”。
それをキラはアスランに抱いている。
実の父親であるその人に。
最初に抱いたのは、絶望だった。
なぜ、今になって気がついてしまったのだろう。
否、いつ自覚しても答えが変わることはきっとない。
(気がつかなければ、よかった)
そうすれば、こんな苦しさを味わうことなど一生なかったのに。
覚えた悲しみはずっと胸に巣食うことになるだろう。
予感ではなく、確信がした。