――好きな人ができたら話してくれ、と笑顔を浮かべた父の言葉
――一瞬だけ覚えてた痛みに、気がつかないふりをした
好き。
「父さん」
呼べば、穏やかな表情と声がすぐ傍から返ってくる。今まで見ていたテレビの音が雑音に変わって、少しだけ音量を下げた。
アスランが両手にカップを持って、青色のカップをキラに渡してくれる。ありがとう、と一言告げて何気なしにテレビに視線を向ける。ありきたりなニュース番組の横目で水色のカップを手にしてソファーに座る姿を確認した。
職業柄、決まった時間に家にいることがない父とのんびりとくつろぐのは久しぶりのことで、カフェオレの入ったカップを包み込んだ両の掌から伝わる熱さえくすぐったく感じる。
「父さんは僕のこと、好き?」
「愛してるよ」
「……そっか」
「キラは違うのか?」
「僕も、だよ」
確認するまでもない。飽きるくらいに幼い時から降り注がれた言葉で、自身も意味さえはっきり理解していない時から紡いでいた言葉だ。
その音の響きが綺麗で特別な宝物のように思えて、しきりに強請っていたような気がする。
それなのに違和感を覚え始めたのは、いつの頃からだったろうか。
愛している、と聞かされる度に母からかけられたときは違う感情が湧き上がった。嬉しくて幸せだと感じるのに、どこかに悲しみと苦しみが混じっている。
「それにしても突然どうしたんだ?」
久しぶりに座って話ができる時間が取れた途端に、好き?と開口一番に尋ねられれば誰だって驚くだろう。
「クラスの子たちがね、僕には好きな子がいないのかって聞いてきて。それで父さんって答えたら、家族は違うって笑われたんだ。好きな人が父さんって答えるのはそんなにおかしいことかな?」
好きな人たちの顔を思い浮かべる。好きだと思える人たちがキラにはたくさんいるのだ。
好きな人っていうのは普通一人だけだ、とクラスメートが大人びた口調で言っていた。
幼い頃ならば母がすべてだったけれど、成長した今では周りにたくさんの人がいることに気がついた。そのすべての人がキラのことを思っていてくれて、そしてかけがえのない存在なのだと知った。だから、たった一人だなんて選ぶことができない。
「好きな人がたくさんいることはいけないこと?」
「いや…悪いことじゃないさ。いつも笑っていてほしい人がたくさんいるってことだろう?」
その通りだ、と素直に頷いた。
好きな人たちにはできるだけ笑っていてほしい。楽しい顔をしていらば、キラだって自分のことのように嬉しくなって幸せな気持ちになることができる。
「大事だと思える人がたくさんいることが悪いはずないだろう」
「でも、“好きな人”っていうのはたった一人だけなんでしょう?」
好きな人、という言葉にアスランの表情に一瞬だけ痛みが孕んだような気がした。しかし瞬きにも満たない刹那的なそれは幻みたいに霧散してしまう。
目の前にいるのは、いつもの父の穏やかな表情。
「大丈夫だ。そのうちキラにだって分かるようになる」
「本当に?」
「あぁ、嫌だと思っても知ることになるさ。それで嬉しいことも悲しいことも楽しいことも辛いことも全部幸せだと思えるような人ができたら、ちゃんと父さんにも話してくれ」
「悲しいことと苦しいことは幸せじゃないよ?」
意味が分からないと首を傾げる。
幸せというのは嬉しいとか楽しいということがたくさん集まったもののはずなのに、それとは間逆の感情までも幸せに括られてしまうなんてことがありえるのだろうか。今のキラには想像すらつかない感覚だった。
心底困惑した顔をしていたのかアスランが小さく笑いを漏らして、長い指が柔らかな鳶色の髪を撫でてくれた。温かな感触に目を細める。穏やかな時間が優しく肌を包んで、ほろりと体が溶けていくような気持ちよさを味わった。
(これが、僕のしあわせ)
父が好きな空の色のカップとキラが好きな海の色のカップを並べて、明るい部屋の中で何をするのでもなく他愛のない話をして、ソファーで寛ぐ。窓から差し込む柔らかな日差しがリビングを温室のようにして、そこで眠気に誘われるまま昼寝をする。
すべて心地よくて優しくて包み込んでくれる、ふくよかな幸せ。幸せとはそのたった一つの種類しかないものだと、信じて疑わなかった。