そんな言葉は要らない
もう10年も経つのね。
ぽつりと呟かれた言葉には苛烈で艶やかなその人には似合わない懐古の念が滲んでいて、珍しいなとその憂い顔を凝視した。
初めて会ったときは、なんて尖った空気に包まれている人だろうと分けも分からずに泣きそうになった。母の姿を探して見知らぬ場所で迷ってしまい、心細さが頂点に達したときに偶然目が合ったのだ。
一瞬きつそうに眇められたアッシュの瞳に怯えてせき止めていたはずの涙が意思に反してぼろりと零れた。頭上からため息を落とされる気配がして怒鳴られるかと身構えたが、与えられたのは母のように温かな掌。
行くわよ、とそっけない一言と温かさに涙が引っ込んで、この人についていけば母に会えるかもしれないと根拠もない確信を抱いたほどだ。
それ以来、偶然乗ることとなったアークエンジェルでも彼女は母よりも母親らしい時には厳しいくらいの態度で接してくれた。それは13となった今でも変わらなくて、コーディネーターとして成人と認められたといえど子ども扱いが改められることはない。
「覚えてる?」
「ちゃんと覚えてるよ」
なにを、とは言われない。けれどフレイの言わんとしていることを正確に把握して、躊躇うことなく頷く。
年をとった――なんて本人に言ったら確実に殴られる――とは思わないが、もっとずっと大人になってしまった人の横顔を見つめる。フレイだけではない、フレイの夫となったサイもミリアリアやトール、ザフトに戻ったニコルやディアッカ。周りにいたすべての人がいろんな意味で変わった10年間に月日の長さを感じると共に、自分は何か変わったのだろうかと小さな疑問が浮上する。
3歳だった頃よりも体は大きくなったし、今年で卒業する幼年学校で知識もそれなりに身につけている。単調だった感情が少し複雑になって、自分でもどんな種類のものを抱いているのか持て余すこともある。それを成長と人は言うのだろうか。
「忘れるわけない」
母が亡くなったのは、キラが3歳のとき。
3歳なんて、そんな幼い頃のことを碌に覚えているはずがないと笑う人もいるかもしれないが、自分は母と共に過ごした時間を昨日のことのように思い出せる。
オーブにいた頃はいつも笑っていた母のことしか知らない。自身と同じ名を愛しげに呼び、躊躇いなく抱きしめてくれて、優しくて温かな母の匂いが大好きだった。
そしてキラだけでなくたくさんの人の記憶に苦さを幾重にも落としたアークエンジェルでの母は、いつも泣きそうに笑っていた。同じ笑顔なのに、笑おうと表情を変えるときに失敗したようにくしゃりと歪んで、それを必死に取り繕おうとする姿が幼心にも痛々しく映った。
大好きだと言って躊躇いなく告白するくらい好いていたキラの父親、アスランと敵対していたなんて知りもしなかったその頃は、どうしてそうやって泣くのを我慢しているんだろうと、不思議に思っていたのだ。
君の瞳はお父さん譲りなんだよ、と時には涙さえ流して何度も何度も話してくれて、きっと瞼の下にあるこの両目が母に最も多く撫でられた箇所だろうと思えるくらい、母は殊更瞳に執着した。もしかしたら、母の生き写しとまで言われるキラのパーツの中で唯一父から受けついだ新緑の瞳を通して、会えない父に想いを馳せていたのかもしれない、と今ならば考えられる。
(僕は13歳になった)
母はこの時に自分を身篭り、そして生む決心をしたのだ。
ありえないと分かっているけれど、もしもこの年に自分に子どもができたとしたらどうしただろうかと考える。母のように生む決意ができただろうか、と。なぜなら自分のことさえ完璧とは程遠い未成熟ぶりを痛感しているというのに、今誰か他の命を受け止めることは13歳の自分には荷が重すぎる。いくらコーディネーターが早熟の新人類といえども、どれほどの知識量や大人の肉体を与えられたところで、経験を積んでいくことでしか成長することができない心はナチュラルと変わらない。
母がこの年に自分を生んだ事実がなければ、キラ自身は子どもを生むなんてきっと夢にも思わなかっただろう。
それともそれこそが母性を持ちうる女と持ち得ない男の違いなのだろうかとも考える。
「母さんはこのときどんなことを考えていたんだろう。僕を生んだとき何を思ったのかな?」
できることならば聞いてみたかった。
それは記憶の中の母の年に近づくほど大きく膨らんで、けれど答えてくれるその人はもうどこにもいなくて未消化のまま胸のわだかまりとなったまま残っている。
あなたは僕を生んで、本当に後悔はありませんでしたか?と。
だって知っていた。
母がアークエンジェルに乗り続けてきたのは友達を守るという名義もあったけれど、大部分の理由を閉めていたのがこの自分だと痛感していたから。
アスランは恋人に自分の子どもがいることを知らされてすぐにキラに父親だと名乗ったらしいと、後から聞いた。ということは、少なくとも3年母はキラの存在を父に隠し続けてきた。戦場で望まぬ邂逅を果たし、何度も敵として対峙して、大きな秘密を抱えたまま好きな人とどんな言葉を交わしのだろう。
きっと父は母に幾度となく手を差し伸べたに違いない。母が死してから尚募って薄れることがないアスランの気持ちはきっと本物だ。大好きな人からの本物の想いを見せられ、差し伸べられた手をどんな思いで振り払ってきたのだろう。振り払われた掌を抱え、去っていく母の背中を父はどんな気持ちで見つめていたのだろう。
すべてキラという存在がいたから、二人の関係が歪んでしまったのではないだろうか。そしてそれが母の短すぎる生涯に繋がってしまったのではないかと、後ろ向きなことを考えるときもある。
母と共にいた頃は恐くて心細くて淋しいときもあったけれど、嬉しいことや楽しいことのほうが圧倒的に多かった。幸せだったと躊躇いなく話すことができる。だって自分は確かに母から愛されていた。溢れんばかりの愛情を注がれて、彼女の一番の宝物である名前までもらって、幸福に満ち溢れた日々を過ごした。
キラにとっては幸せな日々と言えるそれが母や、ひいては父にとって悪夢だったのではないかと考えると冷たい感情が背中を這って時々恐ろしくなるのだ。
それでも口に出せないのは、やはり今の父と一緒にいる自分も幸せを感じ、その幸せを失いたくないという臆病な気持ちがあるからなのだろうと思うと、自分の小さなに情けなさともどかしさを抱かずにはいられなかった。