母がこの世を去って、10年経った。
父と共に墓石に花を沿えたとき、唐突にその月日の長さとそれでも薄れることのない記憶が鮮やさに気づかされて、晴れてもいないのに眩しさに目を細めた。
そんな言葉は要らない
キラの記憶はゆらゆらと揺り篭のように心地よい振動が絶えない戦艦での生活から始まる。周りには同年代の子どもはいなく、一回りも二回りも年が離れた大人ばかりに囲まれて育ったせいか、今でも大人の中にいても居心地の悪さを感じたことはなかった。
近くまで来たからと久しぶりに家に訪れたニコルに最近お気に入りの紅茶を入れて、他愛のない話をする。色味を抑えた服からは僅かに百合の花の香りがして、彼がどこに行ってきたのか想像がついた。
「今年は一人で行ってきたんですか?」
「うん、父さんは仕事の目処がつかないっていうから、先に花を置いてきたんだ。置く場所に困ったけどね」
「そうでしょうね、僕なんて一輪だけ置いて、後は諦めて持ち帰りました」
キラが母の墓に行ったのはちょうど命日のときで、誰かに会うかもしれないと予想していたのだが、キラやアスランのことを思ってか当日に誰の姿を見かけることはなかった。しかし、命日以前に訪れた人がいることを主張するように、墓石が埋まる勢いでさまざまな種類の花が供えられているのを目にした途端、思わず場所も忘れて笑いを漏らしてしまった。
母が亡くなってもう10年が経とうとしているのに、未だに周囲の人間の心に消えることなく残っているのだと思うと素直に嬉しく感じる。もちろん、キラの中でも母との記憶が薄れるはずもない。
「ありがとう。きっと母さんも喜んでる」
「お礼を言われる理由なんてありませんよ。皆、キラさんのことが大好きなだけです」
AAの大人たちは母のことを“キラ”と呼び、キラのことを“ヒビキ”と呼んだ。マリューやフラガなどはヒビキがファミリーネームではなく、ファーストネームだと勘違いをしていた人間も多々いる。
祖母の旧姓をもらってファミリーネームをヒビキとしたのは、キラ・ヤマトとすると母と区別がつかない名前になってしまうからだった。だから戸籍上でキラは母の子どもではなく、祖父母の子ども、つまりは母とは姉弟という関係になっている。そして戦争が激しくなり、AAを降りて再び祖父母の元へ身を寄せたときには知らないうちにファミリーネームがヤマトになっていた。
それは母の強い希望だったと後から聞かされて、そのときから母は死ぬ覚悟をしていたのだと気づかされ、少しだけ恨みたくなる。それと同時に「ちゃんと帰ってきてね」という言葉を口にしたとき、微笑むばかりで頷かなかった母の不器用さは胸に温かなものを灯した。
キラのことをヒビキと呼ぶ人々は皆、母を通してキラを知っている人ばかりなのだ。
「寂しいですか?」
黙り込んでしまったキラの様子を、母への寂慕と受け取ったニコルの言葉に首をふる。
寂しくないって言ったら嘘になるけれど、これは仕方のないものだと思っている。
(母さんの代わりなんて、世界中どこを探してもいない)
実の母親のように接してきてくれた祖母も、姉のような存在のフレイやミリアリアも、年下のキラを対等の友のように扱ってくれるニコルも、大事な人たちだけれど、母はそれ以上にキラの中で特別な存在だ。
それは父であるアスランにだって、成り代わることはできない。
「母さんと離れ離れになったばかりのときは、一人でいると死んじゃいそうになるくらい淋しかったときはあったよ。でも、今は淋しくない」
それでも、ニコルたちがいてくれる。そして何よりも父であるアスランがいてくれる。母とは違うけれど、大切な人たちには代わりなくて、だからこそ傍にいてくれることが心強い。時折感じる淋しさもその温かさが溶かしくれる。
だから淋しくないんだと、無邪気に微笑んだ。
「けど――」
無邪気だった幼子の表情に、悲しみと憂いが溶け込んだ子どもらしくない感情のヴェールがふわりと被さる。幾重にも重ねられた複雑な感情を孕むそれに、ニコルが目を瞠る。しかし窓の外へと視線を移したキラはニコルの驚きに気がつかないままでいる。
「…どうかしましたか?」
「一つだけ、母さんに聞いてみたいことがあったんだ」
本人に尋ねることはもうできないと知っている。母の死を理解できたのはいつの頃だっただろう。少なくとも母の死を父の口から知らされてからしばらくは、信じていなかったし実感がなかった。あんなに傍にいた一番の人が自分を置いて逝ってしまうはずがないと、頑なに首を振った。
逆にそんな酷いことを告げる父と名乗ったアスランのことが嫌いで、条件反射で母の死を意識させられる存在が怖いとさえ思っていた。
それが今では母とはまた異なる意味で特別な人となっている父は、確実にキラの一番近くにいる人だった。そして一番近くにいる人だから、キラが母に尋ねたいことを父には絶対に言えない。今、何気なく漏らしたのはきっと相手が父親じゃない他の人だったからなのだろう。
「そうですか」
それは何ですか?とニコルが尋ねることはなかった。その気遣いが心地よくて、ありがたいと感じる。
まだキラの世界が母親ばかりで埋め尽くされていた3歳の頃ならば、誰かまわずに口にしていたかもしれない。
しかし、13歳となったキラの世界は否応もなく広がり大きくなった。
きらいなもの、きたないもの、やさしいもの、くるしいもの、いろいろなものを見てそして知っている。
無知ではなくなったからこその躊躇いがどこまでも自分を試して、焦らして、苦しめる。
この胸につかえる感情の種類が大人への階(きざはし)だというのならば、大人という生き物はなんて息苦しいものなのだろうと思って、ゆっくりと息を吐き出した。