濁らない水 / 背負えない片翼 / 微笑ましい愛欲
――海の青色って宇宙よりももっと深くて優しい色をしてる
人それぞれによって同じ色でも受ける印象や溶け込ませている思い出が違う。だからこそ、色は主観と入り混じることで極彩色にも醜悪な色にも姿を変えるのだろう。
海の色を「優しい色」と喩えたキラの言葉を聞いた時にぼんやりとそんなことを思った。
でも、僅かな自分勝手な解釈を介した期待が生まれる。あれからもう3年経ったのだ。もしかしたら、キラの言う通り海が「優しい色」をしているのかもしれないと、淡い願いにも似た思いを抱えながら磯の匂いが強く薫る砂浜へと足を運んだ。
「わぁ…きれい」
隣で感嘆のため息とともに吐き出された言葉には、純粋で嬉々とした感情が散りばめられている。ゆらゆらと揺れる水面がきらきらと反射して輝き、茜色の太陽を溶かし込んだ蜜色の海水は甘いのだろうかと下らないことすら思ってしまう。眼前に広がる光景は、確かに美しかった。
「あぁ…綺麗だな」
同じ言葉を吐き出すけれど、そこに滲ませた感情の種類は真逆のもの。
ぞっとするくらいの荘厳さを併せ持った美は、人間というちっぽけな存在の命など簡単に吸い込んでしまうのだろう。暖かな色さえ呑み込んでしまうその貪欲な冷たさの底には、きっと惜しまれるべき数多の命が眠っているだろう。
“彼女”も、その一つにしようとしたのはまぎれもなく己自身。
いくら言葉を交わしても心は通わせることができなかった彼女が苛立たしくて、憎たらしくて、そして仲間を殺された怨嗟が交じり合って、殺意へと織り上げられた。躊躇いもなく振り下ろした刃と急所を狙う銃口は幾度、彼女の命を危険に追いやったのだろう。数えることなど馬鹿らしくなるほどには戦場で対峙してきた。
だからアスランにとって、海とは死闘の象徴であり暗く影を落とした記憶を呼び覚ますものでもある。やはり、それは3年経った今でも変わらないようだ。薄れるはずないだろう、と内心で皮肉な自分が嗤った。彼女を手にかけた感触は機体越しであっても、いくら月日が流れようと、薄れるものではない。むしろ、当時の詳細な状況が薄れてきた分、記憶の中で息づいている感触と視界に映し出されていた海の色ばかりが鋭く尖って、ずきずきと内側から痛みをもたらす。
「きれいだ」
もう一度、言葉を噛み締めるように音を紡ぐ。
波が砂浜に寄せては引いていく音だけが静かに鼓膜を震わせて、冷えた砂の冷たさがサンダル越しに足の裏に伝わる。水面が茜色をすべて呑み込んだら、深淵と広がる「青」が視界いっぱいに広がろうのだろうか。そこまで考えて実際の光景を想像すると、ぶるりと身が震えた。
「さむい?」
「いや、寒いのか?」
突然、小さな指が左手触れて親指以外の4本の指をきゅっと握る。アスランの手を片手ではすべて掴むことができない小さな掌が一生懸命に広げられ、柔らかな熱を伝えた。
上目遣いで尋ねてくるその表情があまりにも心もとなげで、逆にキラが寒さに煩わされているのではないかと聞き返す。しかし、間を置くことなく首を横に振られて杞憂となる。
「そうじゃないよ」
少しだけふてくされたような表情になってそっぽを向かれ、これは俗にいう反抗期なのだろうか幸せなことを考える。しかし温もりを伝える指先は繋いだままで、反抗期の息子が父親と手を繋ぐなんてありえないよなと思い直す。
「おとうさんの指ってすごくかたいんだね」
大人のてのひらだなんて、当たり前のことをぽつりと呟いたキラに視線をやるが、いまだに顔は逸らされたままでどんな表情でそれを言っているのかは把握できない。
指の皮が厚くなって硬くなったのは、14歳の時から受け続けている軍事訓練のせいだった。あらゆる銃火器を持ち、柔らかな皮膚に豆ができてつぶして血が出るほどにはそのグリップやトリガーを握り締めてきた。
繋がれていない自分の右手の指先を見つめる。
銃やナイフを始めとした多くの凶器を手にし、己の胸の内を巣食う狂気に突き動かされて多くの命を奪ってきた。決して綺麗ではないそれは消えない小さな傷がいくつも刻まれている。そして、苦々しい記憶をも蘇らせる掌。今、腕の中でとくとくと鼓動を鳴らして温かい血が巡っている小さな命を強く感じるたびに、息苦しさを増す感覚に襲われた。この真っ白な波動を一度は消し去ろうとしたのは、まぎれもなく己が指。いくら説得してもがんとして首を縦に振らない想い人に焦れ嫉妬に狂って、キラが乗っている艦を本気で撃ち落そうした。
「お父さん、どこか痛いの?」
「寒いの次は痛い、か?」
心配性の息子に思わず苦笑して、小さく破顔した。するとふげけないでとでも抗議するかのように、繋いだ掌に力を入れられる。
「だってすごい痛そうな顔してる、ここ」
そういって気遣わしげに小さな指がアスランの眉根に触れる。
指摘されてから漸く、自分が同僚によく気難しいと言われる表情をしていたことに気がついた。けれど触れた温かさが肌にゆるゆると溶け込むと、不思議と息苦しさが和らぐから不思議だ。同時に先ほどあれほど塞ぎこんで消沈していた気分が浮上してくる。
「大丈夫だ、キラのおかげで治った」
「ほんとう?」
「俺がお前に嘘ついたことあるか?」
「ううん」
「なら、信じろ」
「うん」
触れた小さな指先を掌に包み込んで、目を合わせればキラに満面の笑みが広がっていく。それは記憶に残っている幼いときの彼女の笑顔に重なって、けれど望まぬ邂逅を果たした後の彼女にはなかったもの。
知らなかったといえば、仕方がないと許されるかもしれない。けれど無知は罪だ。
それをアスランは身をもって痛感した。自分のことばかりに目を向けて、想い人がどれほど苦しみ悩み涙を流したのかを微塵も気づいてやることができなかった。ただ目に見えるものだけ、拒絶という与えられた結果だけに捕らわれて、その裏に隠された想像を絶する真実に気がつかなかった。否、気がつこうとしなかっただけなのかもしれない。
そんなわけがない、彼女が自分を裏切るなんて拒絶するなんてあるわけがないと、頭の中だけで作り上げた偶像に縋ってただ1人よがりに嘆いていたのだ。なんて愚かなのだろう、とあの頃の自分を思い出すたびに自身にまぎれもない殺意を抱くのは珍しいことではない。
「たくさんの綺麗なものを見て、楽しいことをしような。そして、この世界の在り方を知っていけばいい」
薄汚いことや目を覆いたくなるような醜悪なことがごろごろと転がっているようなところだけれど、そんな悲しいことばかりではない。この世にはきっとアスランさえ知らない世界の美しさが内在されている。キラにはそのすべてを知って、そしてこの世に生れ落ちたことを誇りに思って欲しかった。
「ふふふ、あのね、同じことをおかあさんにも言われたよ」
そのときのことを思い出したのか、朗らかな笑い声が波の音と共に耳元をくすぐる。
そうか、彼女もこの世界を愛していたのかと今更ながら互いの噛み合わなかった思いがこんなところで重なっているなんてと驚きに似た新鮮な感情を味わう。
「おとうさんとおかあさんは、にたものどうし だね」
「そうだな」
考え方も、ものの見方も、正義の在り方も、何一つ重ならないと思っていたのに、自分たちの愛し方はこんなにも酷似している。
それが素直に嬉しくて、そして少しだけ悲しかった。