濁らない水 / 背負えない片翼 / 微笑ましい愛欲
しとしと、と雨が降っている気配がする。そう思ったのと同時にそんなわけがないと、冷静な自分が一蹴した。
ここはプラント行きのシャトルの中だ。当然、分厚い鉄を挟んだ向こう側には広大な宇宙(そら)が広がっている。無を呈する真空に雨など降るはずがない。
それならば、湿った気配のした物悲しい気分は何だろうと思った。
久しぶりの休暇に遠出をして疲れこそ溜まってはいるが、羽を伸ばしたおかげで精神的疲労はむしろ解消されているはずなのにと辺りを見渡す。
そこで初めてシャトルに乗ってからキラの姿を見ていないことに気がついた。
部屋に足を運んだとき既に荷物が置かれていたから、船内のどこかでのんびりとしているのだろうと予想をつける。
特に用事をあるわけではなかったが、奇妙な胸騒ぎがしてキラの顔が見たくなったのだ。あの子の顔を見れば、この妙な湿っぽさも抜けるに違いないとしらみつぶしに船内を歩き回る。
レストラン、リラックスルームといった人が集まりそうな場所にはキラの姿を見つけることができなく、入れ違いで部屋に戻っているのかもしれないと踵を返した。
部屋に戻る途中に通り過ぎるのは、観覧室とは名ばかりの大きなガラス張りの窓が備えつけられたスペース。
それはアークエンジェルで彼女が幾千もの星を眺めていたという場所に少しだけ似ていた。
――ここから遠くを眺めては、もう会えない君のことばかり考えてた
敵対して殺し合いという目的でしか近づけなかったあの頃。言葉を交わすたびに噛み合わない想いに、互いに傷をつけあっていたばかりの不毛なやりとりを思い出した。
あの頃、果てのない戦場を彼女はこんな悲しみとも諦めともつかない感情で眺めていたのだろうか。
ぼんやりと窓の遠くへと視線をやっていたが、視界に見慣れた色彩を認めて焦点をもっと手前へと移す。
そこには探していた幼子の後姿があった。柔らかな生地の真っ白なパーカーを羽織って、シャワーを浴びたのだろうか普段よりも水分を多く含んだ髪は艶を増し、色味をより強く引き出している。
「……キラ?」
一度目の呼びかけは幼子の意識を取り戻すことができなかった。
今度は数歩近づいてから、もう一度名前を呼んでみる。
「キラ」
細い肩が小さく震えたのは、きっと純粋な驚きからではない。
証拠にアスランの存在に気がつきながら、返事をするどころかこちらを振り返ろうともしない。
律儀な彼には珍しい反応を訝しげに思い、伸ばした指をできるだけそっと肩に置いて膝を折って顔を覗き込む。
キラは嫌がる素振りを見せることはなく、けれど自ら動くこともなく、ただ大人しくされるがままにそこにいた。
彼の顔を覗き込んで、そこに零れれているものを見つけ驚きに目を見開く。一方で、心のどこかで湿った気配がこれだったのかと納得する自分がいる。
「どうした?何か嫌なことがあったのか」
ふるふると首を振られ、俯いたまま否定の意を示される。
「体調が悪いのか?」
これにも同じように首を振られた。違うんだと声もなく、反動で飛び散る涙が肯定させることを阻む。
シャトルに乗る前まではいたって元気な様子だった。憂いなど微塵もなく、ただ久しぶりに共に過ごした時間を満喫した満足感がありありと浮かんだ表情をしていたはずだ。いったいどうしたというのだろう。
泣き声一つ漏らすことなく静かに涙を零す様は、幼子らしからぬ秘めた雰囲気を漂わせる。ただ甘えるように伸ばされた両手でアスランの首に回って、ぎゅっと抱きつかれた。胸に抱いた体温の高い体をそっと抱きしめて、宥める意を込めてゆっくりと掌で背中を撫でてやる。
それからどれくらい経ったのだろうか、おずおずと重い口を開いたキラが沈黙の帳を破った。
「おとうさん、おかあさんのこと覚えてる?」
「あぁ、覚えてるよ」
忘れるはずがない、自分にとってもキラにとっても特別な女性。
彼女を忘れた日など一日だってない。疼くようでひきつれたような甘い痛みを刻み込んだ体が声もなく主張する。今もこの身は一生に一度の盲目的な恋に焦がされたままなのだ、と。
「青色はおかあさんの色だけど、おかあさんをぼくから取っていく色でもあるんだ」
青は清らかな母そのものを指し示すと同時に、母を呑み込んで離さない宇宙の色でもあった。
いつだってキラの傍を離れて淋しさを思い知らせるのは、大好きなで大嫌いな青。
「だっておかあさん、宇宙から帰ってくるといつも悲しそうだった」
ごめんね、と何への謝罪か分からない言葉を何度も何度も呟いて、キラのことを抱きしめた。
その身を青いパイロットスーツに包んだまま。
それがとてつもなく辛そうで、息をすることさえ苦しそうで、そんな風に母を苛んでいるものに対して怒りが沸いたが、それが何か分からなくて結局は象徴である青を厭わしく思った。
けれど母が笑っている姿を目にするのも、やはり青い宇宙や青い軍服を着ていたときだから大好きだと思い直した。
何度も何度も同じことを繰り返して、そのうち大好きであるはずの色がころりと色調を変えて禍々しい色になったかのような錯覚にさえ陥った。
「ここを通ったときに、宇宙が見えて青色を思い出して、そしたら勝手に涙が出てきちゃった」
まだ涙の余韻が残る表情で口元だけを無理やり笑みの形に象る。
「無理して笑わなくていい」
「おとうさん」
「泣きたいときに泣けばいいんだ」
我慢なんてすることはない。
好きならば好きでいい。嫌いならば嫌いでいい。両方ともならば、素直にそう告げればいい。
思いを吐露するのはとても大切なことだ。
嫌でも大人になれば、言いたくても本当のことなど言えなくなる。
だからと息子の泣き顔を包み込むようにそっと両頬に手を添えて、柔らかな額に唇を押し当てた。それからぽろぽろと未だに止まらない涙腺に苦笑しながら、塩辛い涙の粒を一つずつ唇で拭っていく。大丈夫だと言うかわりに、触れた肌を優しく啄ばんだ。